恵みのしずく

恵みのしずく(18)「愛の手紙・ピレモンへの手紙」

この一文は、聖望キリスト教会がスタートした1996年8月の翌月から、毎月1回、主日の説教をして下さることになった藤崎信牧師の2004年5月2日(日)の説教です。「エレミヤ書」(4年7ヵ月)「ヨハネの福音書」(2年10ヵ月)と旧新の大作の講解説教を終えて、次の「ホセア書」(1年2ヵ月、2004年6月6日~)に入る間の“小休止”の月でした。

 「ピレモンへの手紙」は、新約聖書にあるパウロの13通の手紙の中で、パウロが捕らわれの身で書いた、いわゆる“獄中書簡”(エペソ書、ピリピ書、コロサイ書、ピレモン書)の一つです。また、13通の中で最も短く、純個人的な手紙ですが、それだけにパウロの深い愛と行き届いた配慮が溢れており、他の手紙とは異なる感銘を覚えています。また同時に、この手紙を丹念にひもとく藤崎先生のこの一文こそが、私たちに宛てられた“心込めて、愛込めて”の信先生自身の「愛の手紙」だったのです。

(2019年9月15日、藤崎信先生93歳の日 大竹堅固記)

(なお、文中の聖書箇所は「新改訳2017」に代えさせていただきました。)

 

「愛の手紙・ピレモンへの手紙」

(ピレモンへの手紙1節~25節)

 

 「おはようございます」。生きた挨拶を述べることは、恵みであります。私たちは、先日、イースターを迎えました。復活日とは、十字架のイエスが生きているとの喜ばしい祝日であります。「たとえ、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます」(詩篇139:8)。そのことが、復活日を通して実現したのであります。

 

 復活の主は、よみ(陰府)をも支配される方であります。そのお方に連なる者として、その挨拶も生きたものとなるに違いありません。また、そのことは、助けを求めるすべての人、心から祈る人の傍に神はおられる、と言うことであります。皆さんが、祈りの中で日々をお過ごしのことをお喜び申し上げます。

 私たちは、「ヨハネの福音書」を取り上げ、それを読み終わり、完了しました。一書を不十分ではありますが、読み切ることは、神の助けなしには成し得ないことであります。それは、やがて教会の宝となり、力となって働きます。また、私たち個人にとっても、重いものが腹の中に入ったという感慨を与えます。

 次に何を読んだらよいか、どこを取り上げたいか、皆さんの希望をお聞きしたいと、このように願い、お願いするものであります。是非、思っていることを、何でもよいから、その思いをお寄せ頂きたいと思います。先日、皆さんのある方から手紙を頂きました。それで、今日は「ピレモンへの手紙」を取り上げました。

 

 この手紙は、牢中からのものでありますが、場所はどこか決められません。ローマは遠すぎます。パウロは、伝道中たびたび獄に入れられています。しかし、いちいち牢名が上げられていません。エペソで大変命の危ない目にあった(Ⅰコリ15:30~32)とあります。ピレモンのことを考えてみても、エペソの牢獄から、というのが考え易いと思います。

 「コロサイ人への手紙」に、ピレモンへの手紙に出てくる人物(エパフラス、マルコ、アルキポ等)をあげております。したがって、ピレモンの居住地はコロサイと推定するのが妥当であります。また、釈放後の宿をピレモンに依頼しています(ピレ22節)。エペソがコロサイに近いので、執筆はエペソ滞在中と、このように理解したいと思います。

 私は、「ピレモンへの手紙」を取り上げた二つの理由を述べて、説教に入りたいと思います。一つは、私自身、日立教会の悩みの中から生まれた「オネシモ」である、と言うことであります。第二には、今“綠の伸びる”真っ最中でありますが、“老人が伸びる”ということを取り上げたい、ということからであります。

 

 開拓伝道というものは、大変であります。特に牧者にとって、それは辛いものであります。しかし、そうではなく、悩みの中にあるピレモンのような信徒さんに教えられ、育てられ、そして生まれてきたのが私であると思っております。あの「家の教会」はありがたい、素晴らしいと思っております。別けても、協力者森禎・姉妹森ちよ・戦友森信郎の信仰と愛であります。

 ピレモンの手紙は、挨拶から始まります。「キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、私たちの愛する同労者ピレモンと、姉妹アッピア、私たちの戦友アルキポ、ならびに、あなたの家にある教会へ」(ピレ1~2節)。ピレモンは「家庭を教会に捧げた人、アッピアは妻、アルキポはその子供(息子)」でありましょう。

 ピレモンは「愛する同労者」とあります。この「愛する」とは、愛に浴した(アガペートス)無償の恵みとしての愛が、お互いに注がれているもの、姉妹アッピアは集会の中の一員であり、アルキポはエパフロディトと同じく戦友(ピリ2:25)と言われます。この言葉は、アルキポが出会っている戦いを思わせ、パウロと共に戦う者であることを知らされます。

 

 「ならびに、あなたの家にある教会へ」(ピレ2節)。多分、奴隷に至るまで主を信じていたのでありましょう。恵みがなければ、片時もみ前に立ち得ません。恵みが現実に注がれているところに、神の平安は宿ります。「私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように」(ピレ3節)。この祝福が、すべての問題の解決の鍵(かぎ)であります。

 問題を抱え、ある人が牧師館へ向かう。そして、その辺を歩いている内に、問題が解決した、という話を聞きました。祝福を受けているということは、そういうことであります。心から祈る人の傍に、祝福と平安を与える神はおられるのであります。挨拶に次いで、感謝が述べられています。「私は祈るとき、いつもあなたのことを思い、私の神に感謝しています」(ピレ4節)。

 「あなたが主イエスに対して抱いていて、すべての聖徒たちにも向けている、愛と信頼について聞いているからです」(ピレ5節)。ピレモンの信仰と愛、それは素晴らしいものでありました。しかし、信徒として立てるのは、ピレモンの功績ではなく、神の賜物によってであります。したがって、感謝は当然、神に捧げられます。そして、ピレモンのお蔭で、集会のメンバーは、その心に真実の慰めと励ましを受けたのであります。

 

 「私はあなたの愛によって多くの喜びと慰めを得ました。それは、兄弟よ、あなたによって聖徒たちが安心を得たからです」(ピレ7節)。そして、ピレモンの愛と信仰に触れ、感謝してから本題に入ります。挨拶・感謝・そして本題となります。その用件は、逃亡奴隷を受け入れて欲しい、という内容であります。

 使徒として、信仰の教師として、「全く遠慮せずに命じることもできるのですが」(ピレ8節)、「むしろ愛のゆえに懇願します」(ピレ9節)。そして弱さを前面にさらけ出して、「このとおり年老いて、今またキリスト・イエスの囚人となっているパウロ」(ピレ9節)が、「獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです」(ピレ10節)。

 オネシモが、たまたまパウロに出会って、パウロに導かれたのか、それともピレモンからパウロの元に行ったのか、よく分かりません。しかし、「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても役に立つ者となっています」(ピレ11節)。オネシモとは、元来、「益男」(えきおとこ)という意味であります。

 

  逃亡したのみか、主人のところで盗みを働いたのかも知れません。しかし、今は有用な人物になっております。ですから、「私は、彼を私のもとにとどめておき、獄中にいる間、福音のためにあなたに代わって私に仕えてもらおうと思いました」(ピレ13節)。しかし、「あなたの同意なしには何も行いたくありませんでした。それは、あなたの親切が強いられたものではなく、自発的なものとなるためです」(ピレ14節)。

 「オネシモがしばらくの間あなたから離されたのは、おそらく、あなたが永久に彼を取り戻すためであったのでしょう」(ピレ15節)。逃亡、そしてその他のことを神の配剤の下に見て、すべてを神の摂理の下にあることを示しております。そして、その場合、彼は「奴隷以上の者」(ピレ16節)になっています。

 オネシモは、パウロ自身の一部というほど身近になっています。「ですから、あなたが私を仲間の者だと思うなら、私を迎えるようにオネシモを迎えてください」(ピレ17節)。そうすれば、あなた自身もキリストの一部となり、相手の一部となるよう導かれましょう。

 

 さらに、オネシモがピレモンに与えた損害について、「その請求は私にしてください」(ピレ18節)と。愛は自腹を切ることでありましょう。「私が償います」(ピレ19節)と、アフターケアーを全うしようとしております。そして、「兄弟よ。私は主にあって、あなたの厚意にあずかりたいのです。私をキリストにあって安心させてください。(ピレ20節)。また、「私が言う以上のことまで、あなたはしてくださると、分かっています」(ピレ21節)と、期待と希望を述べております。 

 私が申し上げたい、ただ一点は、「私たちは皆、主のオネシモである」ということであります。パウロのピレモンへのとりなしの手紙、この愛に溢れた手紙は、神に取りなしをする主イエスの“愛の写し”であります。逃亡奴隷は重罪人であり、こんなに関わる必要はなかったのであります。

 しかし、パウロはこの一人に目を留め、愛を注ぎ、全力でピレモンに、受け入れて欲しいと願っています。パウロは、「年老いて、今は」と書いておりますが、高齢者が若葉、青葉に勝るとも劣らない力を持って、「綠の伸びる朝」のように、愛と信仰に生きている、という証しではないかと思います。高齢者の信仰が伸び、希望が伸び、愛が伸びていく。これは、主の慈しみによってであります。

 「家の教会」の理想が、この手紙に示されています。聖望キリスト教会は、開拓期の教会であります。この困難の悩みの中から、オネシモは生まれます。大竹・小林・久保田とその姉妹(妻)アッピアらは健在ですが、戦友アルキポは不在であり、そこに教会の課題があり、またそうなっていないところに、そうなるであろう配剤が示されます。

 祈りこそ力です。この一人によって、家庭は変わり、教会は変わり、そして地域社会は変わっていきます。私たちは、「皆、主のオネシモであります」(ルター)。「我ら皆、主につながる」者であります。神に祈祷を捧げます。祈ります。

 

祈 り

 主イエス・キリストの父なる神、み名を讃美します。一週間の、また一月のお守りを感謝します。ピレモンへの手紙を感謝します。祈って静まり、祈って燃え、祈って涙するものであります。私たちの日本は、軍備に力を入れようとし、憲法を改正しようとしています。キリスト者は悲哀の道を辿らねばなりません。しかし、主が私たちのために悲哀の生活を送られました。絶望と戦い、勝利したもう主を仰ぎ見て、戦いの生活を行わしめてください。主の戦いが真剣であること、必死であること、そして必ず勝利に終わることに、望みが与えられ、慰められ、戦う力が与えられますように。この祈りを、我らの主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。

アーメン!!