恵みのしずく

恵みのしずく(26)「愛が創る世界」(マコト・フジムラ)

「愛が創る世界」
―ヨハネの手紙第一4章8節―

(マコト・フジムラ)

「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」

 上記表題の一文は、2020年7月5日の聖望キリスト教会の主日礼拝のために、長年の友であり師であるマコト・フジムラさんがニューヨークのアトリエから動画配信してくれたものです。クリスチャン・アーティストとして世界的に活躍するマコトさんが、愛なる神を美術家の視点から存分に語ってくれています。また、その背後にマコトさんの温かな愛が感じられ、教会にとって“勿体ない”ほどの贈り物とも言えるメッセージです。心から感謝します。

(2020年7月15日記 大竹 堅固)

 聖望教会の皆さま、マコト・フジムラです。きょうは、ちょっとこういう形でメッセージさせて頂きます。私のアトリエの中ですが、聴き易いメッセージをお送りしたいと思っています。目を閉じて、聞いて下さい。

 第一ヨハネ4章8節に「神は愛だ」というみ言葉があります。本当に簡単なひと言です。私はそのひと言に、聖書の神様のすべてが入っていると思います。でも日本の文化では、「神は愛だ」と言っても、ちょっとピンとこない方も多いと思います。

 日本で「愛」という言葉は、日常生活ではあまり使われないと思います。日本の文化だと、かえって大切なものを表に出してしまうと、その意味から外れてしまったり、本当の自分の本音(ほんね)で語ることが出来なくなったりします。ですから大切なものは、きちんと美しい包装に包んだプレゼントのように、ちゃんと隠すのが日本の文化だと思います。

 ですから私は、ある意味で、ヨハネが語っている「神は愛だ」という言葉を、もっと日本の文化に合わせて翻訳するならば、「神は美だ」という言葉を使うことが多いです。

 それは本当に正しい通訳かどうかではなく、コミュニケーションで伝えることは難しいと認識し、また伝える者と受ける者との間にはほとんど不可能なほどのギャップがあるということを前提にしても、「美しい」という日本の言葉の中には、何か「神は愛だ」という意味の響きがあるのではないでしょうか。

 

 ギリシャ語では、「愛」という言葉には4つの定義があります。

1.一つは「ストゲー」(Stgei)と言われる愛。自然に生まれる愛、つまり家族の愛です。

2.二つ目は「エロス」(Eros)。それは性的な愛。それを体験することも私たちは出来ます。

3.三つ目は「フィリア」(Philia)。それは友情関係の愛でもあると思います。

4.四つ目は「アガペー」(Agape)の愛。「犠牲愛」とも言われています。私は、この 犠牲愛にいちばん「美」を感じます。

 もちろん、自然の世界には美しいものが沢山あります。宇宙は、その創造の神に作られた。しかし、エデンの園から、私たちの自分勝手な行動によって、私たちは堕落を体験してしまった。そのために、自然の世界にも歪(ひず)みが生まれ、その中からいろいろなギャップが出てしまった。その完全であったエデンの園から離れてしまったというのが、聖書が語っていることなのですが…。

 でも、その元々の世界は、神の愛で創られていて、どんなに私たちがそこから離れたとしても、まだ神の愛に囲まれているのです。それが、新約聖書の最後の方に出てくる、このひと言「神は愛だ」にすべてが感じ取れるのです。そこにすべての真理があると、私は思います。

 アガペーという愛は犠牲の愛ですが、それは自分のいのちを捨ててまで友達とか愛する人を救う、その心こそがいちばん美しいし、それはまた日本の「美」という言葉に含まれていると思います。なぜでしょうか?

 不思議なことに、「美」という言葉は「大きな羊」と書きます。大きな羊とは、大陸の中国では「太った羊」だったという説もあります。秋のバンクウィット(宴会)に太った羊が出てくると「美しい」ということから、何か生まれてきたものが、日本に来ると洗練され、たとえば和歌を見ますと、そこに犠牲愛というもの、つまり滅びていく死の中に見る美しさといった考えが出てきます。もののあわれという心から、利久の茶道まで日本の中で流れる美意識がどんどん洗練されて、その中で生まれた「美」は大きな犠牲を払ってもよいのではないか。屠(ほふ)られる羊のように、大きな羊が美であるという。

 これは、ただ聖書関係・キリスト教関係の人でなくても、日本の美の洗練されたものには、そういうものが流れているということが幾つもに示されています。哲学的にも示され、いろいろな歴史を見ても、たとえば茶道の歴史を見ても、生け花の歴史を見ても、能の歴史を見ても、そういう何かが流れていることを私たちは身近に体験することが出来ます。それこそが、日本の“美の心”だと思います。

 でも、それが「アガペー」というギリシャ語の表現に近いということは、ちょっと意外なコネクション(関連)かも知れません。私は、愛の定義を何回も試みて失敗しているのですが、どうしても「愛」は、この4つのギリシャ語の定義を見ても、簡単に定義できない言葉だと、今は思っています。

 愛というものは、本当に定義などないものなのではないか? 私がそう思うようになったのは、ヨハネのこのひと言「神は愛だ」からです。愛が神から流れているということもありますが、このステートメント(声明)は「神が愛だ」というのです。それは、愛を知ることを通して神を知ることが出来る。先程、述べた4つの定義を超えた存在が、私たちの宇宙を超えたところ、まだ時間というものがなかった時から愛が存在していた。つまり、私たちが愛を定義しようとするのではなくて、その愛に自分の人生を定義する。それが聖書の招待、聖書の語っているインビテーションだと思う。

 このアトリエを見ると、いろいろな作品があります。背後には、古田織部(註:安土桃山時代の茶人。美濃の人。千利休の高弟)の影響を受けて描いた幾つかの作品(台湾で見せる作品)もありますが、聖望教会の皆さんの建物にも、幸いに私の作品「Sacrifice」(犠牲)という作品が置いてあります。
私は、この愛の存在について一生考え、そしてそれを美に繋(つな)げて、この愛を表現したいと思い、芸術家としてやってきました。

 それは日本で描いた作品で、佐藤美術館で展示した作品を大竹さん夫妻が喜んでその新しい教会堂に飾りたいと求めてくれたものです。私は本当に、その作品が皆さんの背後にあって、毎週、礼拝を共にされていること(まあ今はコロナウイルスのために隔離された状態が続いていますが)、誰でもそこに行って私の作品が沈黙の中でも賛美しているということを思うと、すごく嬉しくなります。

 その作品「Sacrifice」は犠牲ですから、アガペーの愛(犠牲愛)を表している訳です。日本画の材料である砕かれた群青(ぐんじょう)とか緑青(ろくしょう)、また金を使って、雲肌麻紙(くもはだまし:日本画に多く使われる和紙)の上にそれを流す。それは、高価な香油をイエスの頭に注いだマリヤのように、自分のすべてを注ぎ、その美を追求する心を、またイエスの存在を敬(うやま)う私にとって、いちばん自分の定義を変えてくれたイエスという貴重な存在に出来るだけ近づこうと思って、日本画の材料でいちばんよい材料を使って描いた作品でした。しかし、アガペー、犠牲愛そこから流れる神の愛は、私たちがその愛を定義しようとしても限界があるのです。

 でも、生きている神の言葉を通して、また教会を通して、私たちがその愛に触れ、その愛に抱き締められると、人生でひとりぼっちになってしまった自分でも、それを受け入れることによって、心が開き、新しい世界がそこに生まれるということを、私は何回も何回も体験しています。 

 ですから、自分が作るものを受け入れる。そして心を開く。もし神様の存在が疑われるなら、疑ってもよいのです。神の存在は、時間を超えています。宇宙を超えているのです。ですから、いくら私たちが一生懸命考えても、証拠を求めても、見つからない愛かも知れません。

 でも、聖書の約束は、その不可能な存在がイエス・キリストを通して、2000年前に現れたナザレのイエスという存在を通して、その愛を知ることが出来るのです。「敵を愛しなさい」と言ったイエス様、その存在こそが美の原点でもあるのです。そして、原点だけでなくて、「神が美である」ことを体験するのです。

 いろんな体験をし、自分の限界に来て、先が見えなくなり、「そんな愛なんかないよ」と思える時でも、自分の疑いではなくて、その愛に気づく可能性は消えません。

 神の愛は、もし私たちの理解で五分五分のチャンスであったら、それを追求したいと思う方は多いかも知れない。もし、それが25%だったら、どうでしょうか? その美しい愛、純粋な愛を一生のうちに体験できるパーセンテージが25%だったら、どういうふうに生きていくのでしょうか? もし、それが5%だったら、どうでしょうか? もし、それが1%だったら、私たちはどのように生きていくでしょうか? もし、それが0.001%であったら、どうでしょうか?

 

 信仰を持つということは、ある意味で、その0.001%の可能性に賭けるということなんです。もし、その純粋の愛が宇宙の外に、私たちの目に見えないところに存在していたら、時間が始まる前に、時間を超えた存在であったら、もしその可能性があるというだけで、信仰はその小さな種を自分の心を開いて、そこにただ埋めるということなのです。

 どんなに暗闇の中で、どんなに先が見えなくても、その可能性に心を開く。それで十分なのです。その可能性に心を開くと、なんとその小さな種が自分でも気がつかないうちに、どんどん根っこを生やしていくのです。

 冬のチューリップの球根を考えてみると、分かるのです。芽は冬を体験しないと、春に出てこない。ですから、秋に植えるのです。植えてすぐには、何も起こってこない。雪が降って、それが溶けて、その水が球根を育て、根っこが生えてくるのです。

 小さな信仰の種も、時とともにどんどん根っこが生えていくのです。その可能性だけで十分なんです。そうすると不思議なことに、0.001%の一番底にある人でも、その周りの人たちや仲間と一緒に歩いて、それが5%になり、それがある時、気づくと25%になっている。

 そして、いつの間に五分五分になって、ちょっと屋根の上に立って、近所の人にそれを分かち合いたいと思うようになり、「あなたにも可能性はあるんですよ」と言ってあげたくなるかも知れない。

 いま、絶望を目の前にしている人は多いと思います。孤独でいる人も沢山いるでしょう。そういう人たちに、この愛の可能性があるなら「是非、知ってほしい」と思うのは当然です。それが“愛に育つ”ということです。自分のことばかり考えている間に、他の人たちが苦しんでいる。このパンデミック(大災厄の世界的流行)の中、苦しんでいない人はいません。考えてみて下さい。その中で、その沈黙の中で、神は語っているのです。愛の可能性があって、私たちがその可能性に身を傾けるならば、そこからどんどん育つ世界が生まれてくるのです。

 愛には、創造する力があります。愛には、コネクション(関係・つながり)を創る力があります。自分が独りになって、周りに誰ひとりいなくても、その愛を知ったなら、どんどん行動を始め、自分の視野を外部に広げていく。それが愛の一つのチャレンジです。そのチャレンジを通して、絵とか歌とかいろんな表現が生まれてくる。それも愛なのです。ですから、愛は創造に繋がっています。

 私たちが想像力を膨(ふく)らますことによって、簡単に言えば、愛の結果、創造力がどんどん膨らんでいくのです。

 前には不可能と思っていたことが可能になってくる。そして、それをシェアしながら、同じようなことを考えている仲間と一緒に旅をしながら、食事をしながら、その発見をどんどん増やしていく。これが、本当の教会の姿です。

 ですから、私たちがその愛をもって毎日生きていくと、コミュニティ(地域共同体社会)が生まれてきます。それは、教会の建物が有っても無くても同じです。もちろん、聖望教会の場合は集まる場が与えられています。その中で美味しい食べ物を頂いたり、作品を見たりする。私も学生を何人か連れてきて、お世話になっています。その学生一人一人が、聖望教会で体験した本当の愛の表現がそこにあるからこそ、日本という国が皆んな好きになって、大好きになって帰って行く。そのメッセージは本当に大切なメッセージで、それは世界を変えるメッセージとなるのです。

 神の存在「神は愛だ」。それは、神様から愛が注がれているということもありますけれど、それ以上に神が愛なんだ。定義は必要でない。その神を体験すること、その愛を体験することによって、私たちはどんどん成長していくのです。そして、その教会が美しいものへと変わっていくのです。嫌なことがないとか、苦しいことがないとか、そんなことではない。もっともっと世界の暗闇が感じられるかも知れない。

 しかし、皆んながその重荷を一人で抱えるのではなく、毎日毎日祈り合って、小さな奇蹟を生きていく。小さな復活が毎日あるのです。それを一人一人が体験しながら、そのコミュニティでシェアしながら生きていく。

 この先どうなるかわかりませんが、たとえどんなに暗くなっても、その光、暗闇の中の一つのローソクがあれば、平和が必ず見えてくるのです。

 ですから、聖望教会が本当に「ホーリー・ホープ」(聖い望み)となっていくことを、私は楽しみにしながら、遠いアメリカですけれど、こうして皆様と共に、きょう礼拝できることを本当に感謝します。最後に、祈らせて下さい。

〈祈 り〉

 天の愛するお父様、御名を賛美致します。

 あなたが愛であり、あなたが美であり、私たち日本の美もあなたのものであることを感じます。

 日本画の高価な材料を使いながら、私はあなたを知ってから一生、すべてをその賛美として、祈りとして学んでいます。主よ、このパンデミックの世界、差別の多い世界の中、あなたの愛の存在がたとえ目の前で見えなくても、そのパーセンテージがいくら低くとも、あなたの可能性がそこに待っていることを思い、感謝します。

 聖望教会が、これからも、こういう愛の場となること、そして創造力の力がさらに増えていくことを願い祈ります。

 この時を感謝して、主イエス・キリストの御名を通して祈ります。アーメン。