恵みのしずく

恵みのしずく(20)「天の故郷へ送る言葉」 (大竹 堅固)

「天の故郷へ送る言葉」

(大竹 堅固)

1.「“老兵”の死」

2.「また会う日まで」

3.「天国への凱旋おめでとう!」

  

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」

へブル人への手紙11章13~16節)

 

 このへブル11章は、昔の人々の信仰を何人かを例に語った後、彼らがあこがれていた真の故郷である〈天の故郷〉すなわち「神の都」について述べているのが上記の箇所です。

 地上のカナンは、天の故郷の一つのサンプルにすぎない。神を信じる者が受けるまことの報いは、地上の過ぎ去るようなものではなく、神の都で神ご自身のいのちにあずかることなのだ。だから、この地上では、私たちは「旅人」「寄留者」にすぎない、とするこの手紙には、いつも大きな慰めと希望・期待を与えられている。それはまた、親しい者を天に送る時にも尚更である。

 

 1984年12月1日に75歳で天に召された母千代については、すでに「恵みのしずく」(15)の「母よ、主の御つばさに乗って天翔けよ」(教会が建築中のため自宅での告別式の喪主挨拶)を読んで頂ければ幸いです。

 1.「“老兵”の死」は、父達之助が79歳で天に召された1982年8月31日の数日後に浅草橋教会で行なわれた告別式で語った私の挨拶です。

 2.「また会う日まで」は、私の妻登巳子の弟實川直が1990年8月29日に44歳という若さで亡くなり、「實川機械株式会社」の専務取締役として「社葬」の形で、工場前の空地と通路を使って行なわれた。親戚関係と全従業員、取引先および同業者、近所の方々、友人たちで一杯だった。そんな状況のため、義兄である私の挨拶は、分かり易く故人に語り掛ける形をとらせてもらった。

 3.「天国への凱旋おめでとう!」は、1994年9月4日に87歳で天に召された、敬愛してやまない義母・實川晴子さんの告別式での挨拶は、その長女の風岡明子姉が行なったが、教会誌「やわらぎ」への執筆は、なぜか私にまわってきたので、喜んで思い出を書かせて頂いた。

(2020年1月11日(土)深夜記 大竹堅固)

 

 

1.「“老兵”の死」

 「われ一粒の麦とならば、わが生涯これにて足れり。」(父が残した愛用の聖書に記されていた言葉)

 

 先日(9月2日)の父の葬儀に際しましては、黒木先生ご夫妻をはじめ教会の多くの方々の暖かなご援助を頂き、本当に有難うございました。お蔭様で、父の遺言通りの“質素で聖らかな”葬儀をもてましたことを心から感謝致します。

 その折りの黒木先生のお心のこもった、しかも適切なるご紹介にもありましたように、本当に父は頑固一徹で、およそ妥協とか柔和とかいった言葉には程遠い性格の人でした。こうと思ったら、すぐに行動に移さずにはいられない、常に“わが道を行く”感の強かった人でありました故に、教会の方々にも随分とご迷惑をおかけしたのではないかと思いますが、何卒お許しの程をお願い致します。

 しかし、そのように人間的には欠点の多い父ではありましたが、こと信仰につきましては、55年間、文字通り神に食らいついてきたその執念は、やはり尋常一様ではありませんでした。それ故にこそ、神は父に、「夕暮れになりて、さらに明るき」信仰を与えてくださいました。

 特に最後の数年は、長年苦労を共にした伴侶の思わぬ病気、父と一番性格の似ていた長女の急逝、さらに自分自身のガンの病という、この世的には辛い出来事を通して、神は父の信仰の総仕上げをなさっているかのようでした。そばで接してきた私たちにも、愛の神であると同時に、厳しい神の一面をまざまざと見せてくれたのでした。

 しかし、そうした試練を通して、神は父にいろいろなことを、愛や忍耐や寛容を教え、世的な棘(とげ)を一つ一つ取り去ってくださり、これまでにない、益々神と密着した、神のみにすがった生活を与えてくださいました。そして、それまでは嫌っていた「愛」という言葉を口にするようになり、「私の愛のうちにとどまりなさい」(ヨハネ15:9)という聖句をよく書くようになりました。

 本当に、父の死は、私たちに多くのことを教えてくれました。しかし一番大きなことは、たとえ一時的に鈍ることがあっても、決して離れることなく神に従い歩む限り、神は必ず「義の冠」「生命の冠」を授けてくださるということでした。また、私たちが仕える万軍の主は、今も生きて働いていてくださるという確信でした。

 「この老兵を用いてください」と、晩年、父はよく祈っておりましたが、神がその死をも有効に用いてくださったことを、心から感謝し、聖名をあがめております。

(1982年10月号「やわらぎ」所載)

 

 

 

 

2.「また会う日まで」

 直(ただし)さん! 本当にご苦労さんでした。長い苦しい闘いを終えられ、44年11か月という短いが力一杯、我武者羅にこの世の馳せ場を走り抜かれて、君の死に顔の何と穏やかなことか。今はもう、苦しみや痛みから全く解放された世界に移されて、「緑のまきば、いこいのみぎわ」で休息を与えられていることでしょう。どうか十二分に休んでください。

 それにしても、直さん、君のガンとの闘いは見事で立派だったよ。昨年1月に再発したガンに対し、君は“徹底抗戦”を宣言し、度重なる抗ガン剤投与やコバルト照射も進んで受けられた。そのために髪の毛がすっかり抜け落ち、かつらを着けていたこともあったね。

 それでも、「病気なんかに負けてたまるか」という君の母親譲りの不撓不屈の頑張り精神には、いつも感心させられ、私たちも心から声援を送った。

 君は、そんな大変な闘病生活の中にあっても、いつも工場のこと、仕事のことが気になって、退院するやいなや、すぐに作業服に着替えて工場に出ていた。

 「うちの従業員は日本一だ」といつも自慢し、誇りにしていたね。でも、それも直さん、君が昼夜の別なく、休みもなく、率先垂範、先頭になって働いてきたからだ。それに君はいつも、働いてくれる人たちの立場に細やかな心を配っていた。だから、君の周りに、君が自慢するような素晴らしい人材が集まって来たのだ。

 こんな君の頑張り精神にもかかわらず、憎っくきガンはますます猛威を振るい始めた。悪性腫瘍の中でも特に痛く、進行性の速い肉腫だったため、今年5月1日に入院してから昨日まで4ヵ月、同愛病院の外科病棟301号室が君の“終(つい)のすみか”となってしまった。

 しかし、この最後の4ヵ月が君にとっては辛い、文字通りの苦しい闘病期間となるのだが、それと同時に、その苦しみに耐える中から、君はまた大きな偉大な発見をすることになる。 

 正直言って、一時は家庭を顧みずに奥さんや子供たちを悲しませた君だが、この病を通して、またその間の家族の献身的な看護ぶりなどを通して、何が人生にとって一番大切なのか、という真理に立ち返ることができた。人は自分の手で人生を始めることもできないし、自分の手で人生を終えることもできない。君は、少し遅かったが、自分の結末を神にゆだねることによって、大きな平安と発見を得たのだ。

 「終わりよければ、すべてよしだよ、直さん!」。8月24日の金曜日、自らの意思で黒木先生から病床洗礼を受けた君は、「ここは天国のようだ」と言って、奥さん、子供たち、きょうだい、黒木先生らに感謝の言葉を伝え、「アーメンだ」とはっきり口にしたそうだね。この世では、たった5日間のクリスチャンだったが、神はそんな君を大きくお用いになられたのだ。

 「おーい、みんなもオレのところに来いよ。天国はいいところだぞ!」と叫んでいる君の大きな声が聞こえてくるようだ。私たちもいつか、そこで君と会えるのを楽しみにしている。それまで、ひとまず、サヨウナラ!

(故實川直葬儀での挨拶より、大竹兄は直さんの義兄)

(1990年10月号「やわらぎ」所載)

 

3.「天国への凱旋おめでとう!」

 「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。」(イザヤ書26:3)

 

 母・實川晴子の晩年にかかわってくださり、主にある親しき交わりに入れてくださった教会の皆様方に、改めて心からの感謝とお礼を述べさせていただきます。

 87年と150日に及んだ母の生涯の大部分は、苦労の連続、重荷を負っての闘いの日々でした。九死に一生を得たことも何度かありました。まさに波乱万丈、娘の風岡明子姉が告別式の挨拶で述べたように、「朝ドラ」でも十分に視聴率が稼げるような、稀に見るドラマチックな生涯といえます。しかし今、それらを綴る紙数はありません。

 昭和36年(1961年)4月、初めてこの母に出会った日のことが鮮やかに甦ります。高校3年になったばかりの登巳子さんを連れて、わが家を訪れて来た日です。当時の母は、堂々とした体躯で、背筋もシャンとしていました。

 「なんて大きな立派なお母さんだろう!」というのが第一印象でした。“女丈夫”という漢語がすぐに頭に浮かんできました。

 それから5年後、私が登巳子さんと結婚することになったのも、この母への尊敬の思いが大きな要因でした(もちろん、彼女自身の明るさと笑顔の素晴らしさに魅かれた私でしたが…)。

 どんな事態にも動ずることがなく、常に沈着冷静、明治生まれのバックボーンが一本通っていました。忍耐・我慢の人で、愚痴や泣き言をいうのを聞いたことがありません。口数は多くなく、むしろ人の話をよく聞いて、必ず適切な感想と助言をしていました。その意味で、生まれながらの教育者でした。

 豊かな時も決して傲らず、自らは質素を旨としながら、ひとに対しては気前よく、与える人でした。

 こんな尊敬できる人に、私は会ったことがありません。その結果、「この母に育てられた娘に間違いはない」と確信したのでした。

 しかし、すべてに増して嬉しかったのは、この母が85歳になって信仰を持ってくれたことです。そして、夫の5回忌でしたか親戚中が集まった席で「これからはキリスト教式でいきます」とはっきり宣言したのです。

 9月4日の早朝、10日間眠り続けた母が目をあけて、そばにいた看護当番の2人の孫に向かって「ありがとう」「アーメン」の言葉を述べて、再び眠りに入ったそうです。そのあとで訪れた私たちは、本当に安らかに眠るように逝った母の顔に感動しました。顔中に深く刻まれていた皺(しわ)もすっかり消えて、それは美しい母の顔でした。霊はすでに、永遠の安らぎの中にあることが見てとれる顔でした。

 この母の死を通して、私たちには永遠のいのちにつながる希望が与えられていることを、改めて実感させられました。そして、主にすべてを委ね信頼する時、主が素晴らしい取り扱いをして下さることも…。アーメン!

(1994年10月号「やわらぎ」所載。一部加筆訂正)