恵みのしずく

恵みのしずく(37) 「夕暮になりてさらに明るし」 1. 「洗礼式に当たって」(城倉 知津)2. 「私の信仰告白」(奥野 静枝)

 

は じ め に

 今回、「恵みのしずく」37号の表題にした言葉は、旧約聖書ゼカリヤ書14章7節の意訳例の一つです。日本聖書協会の文語訳聖書では「夕暮の頃に明るくなるべし」であり、口語訳聖書では「夕暮になっても光があるからである」であり、新共同訳では「夕べになっても光がある」であり、私たちが用いている新改訳では旧版・新版ともに「夕暮れ時に光がある」です。

 さらに、もう一つ加えるなら、私の父・達之助が尊敬し、愛読していたクリスチャンで最高裁判所長官であった藤林益三氏の著書『一法律家の生活と信仰』(東京布井出版発行・昭和53年8月25日第一刷)の中で、朝日新聞の取材で「夕べになりてさらに明るし」という言葉を使ったと書いています。

 これら諸々を参考にして、父が習字の大きな題材としたのが今日の表題だったのです。

 かのドイツの詩人・作家のゲーテは、死の床で「もっと光を!」と求めたとか…。そんな言葉を発せずとも、キリスト・イエスを知ることのすばらしさを味わった者には、主ご自身が羊飼いとなって、私たち羊を天の御国にまで伴って下さることを信じて、下を見ずに上を見上げて歩んでいきましょう。

 以下に紹介するのは、それぞれに人生の荒波を乗り越えた末に、すべてをイエス様に委ねることを決意し、洗礼式を迎えた二人の老婦人たちの「信仰告白」です。今は亡きお二人に天国でお会いできる日が楽しみです。ハレルヤ!

 お二人の生前を簡単にご紹介しましょう。最初の城倉知津(じょうくら・ちづ)さんは、聖望キリスト教会の会員・網野洋子姉の母上です。明治43年(1910)、長野県伊那町に生まれ、昭和6年(1931)に地元の農家城倉家に嫁ぎ、農業の仕事に加え、養蚕(ようさん)農家として戦前・戦後の一時期、日本の代表的な輸出産品であった生糸生産で何度も表彰されました。

 また、その間に6人の子供が次々に与えられました。長男の良介は昭和7年12月24日生まれで、のちに母知津の心配の種となる子。しかし、さらにのちの1982年8月1日には、この良介牧師(昭島めぐみ教会)から洗礼を受け、その喜びの中、1ヶ月後の9月4日、天に召されました。昭和10年生まれの長女・洋子も母に遅れること5年後の1987年12月20日に兄より受洗しました。ちなみに、洋子さんの下には3人の妹が次々に生まれ、長男・良介が家督(かとく・相続すべき家の跡目)を譲るつもりだった昭和20年生まれの次男・正義(まさよし)は、南米の未登峰登山隊に選ばれ、甲斐駒ヶ岳で練習中、浮き石と共に転落し22歳の命を絶った。その山が、城倉家から遠望できるのが、どんなに辛かったか…。

 最後に、城倉家への神の素晴らしい恵みをお伝えします。良介牧師の二人の息子は、お父さんにならい、城倉翼さんは「那覇バプテスト教会」の牧師、城倉啓さんは世田谷下馬の「泉バプテスト教会」牧師、東京バプテスト神学校講師。「いのちのことば」6月号に「ヘブル語のススメ〜聖書の原語の世界〜」を連載中です。伊那の農家の長男坊への主のアタックから、この恵みの広がり! やっぱし、私たちのイエス・キリスト様は凄いお方ですね。

 なお、城倉良介牧師は、2014年9月17日、天に帰られました(享年81歳)。

 

 

次の85歳で洗礼を受け、「私の信仰告白」を書かれた奥野静枝さんが初めて聖望キリスト教会に来られたのは、1999年8月1日(日)に孫の奥野聡子さんが藤崎信牧師より洗礼を受けた日でした。

 次の週(8月8日)の週報の〈先週の礼拝〉に、「4年目の最初の礼拝。主はこの群れに、また一人の仲間を加えて下さった。ハレルヤ! 奥野聡子さんの洗礼式には、おばあさまの静枝さんも初めて参加して感激の涙を」とある。

 また、大竹志保子姉妹も「祈っているうちに示されて、岩井大三兄弟に最後の別れを告げるために急遽帰国し(7月20日)、その目的を果たすとともに聡子さんの洗礼式にも立ち合えて、8月2日、カナダに戻った」とある。

 わが家での家庭集会をこよなく愛した大三兄は、8月6日18時56分、四街道の山王病院ホスピス病棟で天に召されました。2021年6月21日(月)夕方4時32分に天に召された岩井睦美姉の父君です。大三兄弟は、集会の日、必ず1、2時間早めにわが家に来て、心血を注いでの祈りで会場とその日のメッセンジャーを聖め整えてくれるのでした。

 静枝さんは、この8月1日の孫の聡子さんの洗礼式以来、教会の雰囲気と藤崎信・一枝先生ご夫妻が大好きになり、4年後の2003年10月5日(日)の洗礼式を迎えるのです。

 85歳で主の温かな懐(ふところ)に飛び込んだ静枝姉妹の、“えもいわれぬ”喜びが伝わってきますよ。お蔭で、それまで「負けてなるものか」と張っていた気からも解放されて、今まで思い出すことさえ嫌(いや)だった戦争体験を素直に語ってくれたのでした。

 当時87歳だった静枝姉の、2005年8月14日の教会の「平和祈祷・証詞礼拝」でのお証詞です。それをまとめた「恵みのしずく」(6)の「ああ、戦争はいやだ、戦争はいやだ」を是非お読みください。

 その後も、忠実なクリスチャンとして礼拝を第一に歩まれ、南大野の施設に入られてからも、お訪ねすると、一緒に賛美歌を歌うのを楽しみにしてくれました。2019年1月28日、眠るように安らかに天に召されました。101歳と25日の生涯でした。

 

2021年6月26日記 大竹 堅固

 

 

 

1. 「洗礼式に当たって」(城倉 知津)

1982年8月1日(日)受洗、72歳

 

 

 私は長野県伊那市の西春近(にしはるちか)と云うところで生まれました。権現山と云うちょっと富士山に似た、とても美しい小さな山のふもとでした。

 私は現在72歳、生まれたのは明治43年(1910年)で、お若い皆様から思えば、気の遠くなる位昔の人間でございます。私の母は伊那町、その頃は伊那市は伊那町と云いました。そこで生まれましたので、私はよく母の実家に遊びに連れて行かれました。その頃、母の実家には私の従姉妹(いとこ)に当たる人と一つ位違いの叔母がおりました。そして非常に私を可愛がってくれました。

 昔は今と違って、各家庭に風呂などありませんでしたので、何がしかのお金を持って、カルイシ(軽石)、石鹸、アカスリなどを入れた小さな洗面器を小わきに「銭湯」と云う風呂屋に行ったものでした。

 たまたま、その街の中にホーリネス教会というキリスト教会がありました。それは小さくて借家らしく、二階が教会になっておりました。下は普通の家で、うす暗い街の中に一軒だけ明るく灯がともっていて、昔のことなのでガラスはなく、それは紙で貼られた障子でした。

 その障子に映る黒い人影とオルガンの音と讃美歌の唄声は、今でも目を閉じると聞こえてくるような気がします。夜空の星を見上げながら道端にたたずんで、その唄声に合わせて讃美歌をうたう姉たちを、私は本当に美しいなと思いました。

 その後、姉たちに連れられて日曜学校にも2、3回行ったと思います。何とも云われない、和やかな美しい風景だったと子供心にも思いました。これが、私が神様に出逢った一番最初ではなかったかと、今になって思われます。

 私の実家は浄土宗、嫁いだ先は日蓮宗でございます。私が現在の家に嫁いでまいりましたのは昭和6年で、不景気のどん底と云われた頃でございました。そして、長男の生まれましたのが昭和7年の12月でございました。

 その頃はまだ若かった姑(しゅうとめ)に仕えながら6人の子供を育ててまいりました。次々と生まれた子供たちは、育てたと云うより、むしろ育ったと云うべきかもしれません。夢中でした。皆が本当に健康で、すくすくと育ってくれたのも、今にして思えば、ひとえに神様のお助けであったと思います。

 養蚕(ようさん)(註:繭・まゆをとる目的で蚕・かいこを飼育すること。―農家)に、農業に、子育てにと夢中でした。その中に長男の成長がどんなに待ち遠しかったか知れませんでした。一緒に畑に働きに出始めた時の嬉しさは、今でも忘れられません。よく畑のぼた(土手)に休みながら、小さな議論をたたかわしたものでした。

 その頃から、何かしら、この子の道が私たちの歩む道と違っているように、少しずつ気付き始めました。「何もいらないから、僕に自由だけくれ」と真剣に云われた時、予期はしていたけれども驚きました。

 その頃の田舎(いなか)では、長男と云うものは掛け替えのないものだったのです。縁の下のクモの巣まで長男のものと云われた位の時代でしたから、もちろん家族をはじめ親類の物凄い反対に逢いました。

 でも、その意志に変わりはなく、「末の弟に家を任せられるようになったら自由にしてくれるか」と云う長男の言葉に、私も考えました。この子の人生はこの一度だけなんだと、子供のために進みたい道に進めてやるのが自分のとるべき道ではないだろうか? まだ小学校に上がったばかりの弟の成人する日まで待っては無理、一年遅れればそれだけ、その苦労は大変なことだと考えました。そして、この子のために道をあけようと決心しました。 

 もちろん、主人は大反対でした。家族や親戚や近所の批難は、私ひとりに集まりました。幾度か決心も鈍りました。でも、この子の人生は二つとはないと思った時、やっぱり決心しました。もしこの子が中途で崩れたら、私が責任を負ってやればいいのだと決心したのです。

 上京した子供からは、いつも元気な便りばかりでした。主人は、困って帰って来ることを願って、一円の仕送りもしてくれませんでした。何一つ助けてやることの出来ない無力を恨んで、床の中で人知れず泣いたことも幾度かありました。でも現在、こうして大勢の皆さまに助けられ、小さいながらも神様のお仕事のお手伝いをさせて頂いていられることは、私の何よりの喜びでございます。

 伊那市の駅まで長男を送って行った時、コートひとつ買ってやることも出来ず、聖書教会のソントン先生に頂いたダブダブのレインコートを着て、風呂敷包みを一つ持って、動き出す電車のデッキに「俺は最高に幸せだ!」と云う顔で、ニコニコと手を振っていた姿が今でも瞼(まぶた)に焼き付いています。

 悲しいことに、次男には先立たれましたが、他の子供は順調にそれぞれの道を歩んでおります。お蔭様に私も健康に恵まれ、昨年、主人には死別しましたけれど、その後、孫と二人で平和な毎日を送っております。70年の長い人生を振り返ってみます時、一日として神様のお守りのない日のないことをしみじみ思います。これからも、今まで以上に信仰の道を歩み、残る余生を安心して暮らすために、今日ここに洗礼を受けさせて頂く訳でございます。

 ◎吾子の手と 思ふてとりし其の手より 神のめぐみの伝わりてくる

 ◎幾年か 願ひてすぎしを 今日ここに 思ひかないし事のうれしき

1982年8月1日 城倉 知津

 

 

 

2. 「私の信仰告白」(奥野 静枝)

2003年10月5日(日)受洗、85歳

 

 主の御名を賛美いたします。

 ちょうど今から5年前、聡子を伴い友人のご紹介で聡子の母の道子がこちらの聖望教会を訪れました時、すでに神様は御手をひろげて私共を待っていて下さったのではないでしょうか。

 大竹様ご夫妻のお人柄にひかれ、また教会の兄弟姉妹のお優しさ、爽やかな雰囲気に溶け込むように、聡子は間もなく受洗させていただきました。やがて唐川尊議君との出会い、結婚、すべて神様の思し召しとしか考えようのない感謝の日々を過ごさせて頂くようになりました。

 そして、遅ればせながら老いの身の私も、こうして藤崎信先生のお導きのもと、皆様から祝福を賜る日々を迎えることが出来ました。

 思えば遥けくも遠い道のりではございましたが、私の母の実家がクリスチャンであった影響のためか、幼い頃から私はマリア様とイエス様が大好きでした。小学校の頃は、日曜学校にも通っておりました。女学校の受験の前日、一生懸命、神様にお祈りをしたことを今でも覚えております。

 結婚後は代々続いた仏教の家庭で、毎朝、仏様を拝むようになりましたが、先祖を敬う意味で何の抵抗もなく、手を合わせておりました。けれど、私の中の神様は消えた訳ではありませんでした。

 結婚生活は二年足らずで、夫は戦争にかり出され、その後、一年半ばかりで南方の海に散華いたしました。また、昭和20年3月10日の「東京大空襲」の爆撃で、上野の家も焼けました。

 しかし、茫然自失の私には、人の命の儚さや諸行無常を嘆く暇(いとま)はございませんでした。夫の母と三歳と一歳の子供を置いてゆかれたのです。

 私は当時、25歳でした。思い出したくもない苦闘の連続ではございましたが、くぐり抜け、二人の子供を守り通せたのは、私には神様がついていて下さったのだと、自惚れておりました。それでも、神様はいつも私を助けて下さいました。最近、私はやっとそのことに気がつきました。自分がどれほど傲慢であったかを…。

 礼拝前の「準備祈祷会」に幾度か参加させて頂きます中に、傲慢であった自分が恥ずかしく情けなく、絶え入りたくなった時が度々ございました。神様のみ前で告白し、懺悔(ざんげ)いたします。永い間の罪と汚れを、共にお赦し賜りたくお願い申し上げます。

 今日からは、憧れ続けてまいりました主イエス様の身元に一歩でも半歩でも近づくことが叶えられますように…。今は記憶力も思考力も失せてしまった私ではございますが、ひたすら救い主イエス様を信じます。洗礼後は、教会の規約にしたがい、忠実に励むことを約束いたします。

感謝 2003年10月5日 奥野 静枝

 

 今日の私の受洗を祝福して下さいました方々、藤崎先生ご夫妻をはじめ教会の兄弟姉妹のお一人おひとりに、心から感謝申し上げます。お集まり下さいました皆様お一人おひとりに厚く御礼申し上げます。本当にありがとうございました。