恵みのしずく

恵みのしずく(3)「市川に生まれて79年」

昭和14年(1939年)に国道14号沿いの借家から現在の3丁目37番11号(当時は1丁目85番地)に引っ越してきた両親にとって、その家は初めての持ち家でした。釣具店を営んでいた老夫婦から譲り受けたものだそうです。

 

私は5番目の子として、引っ越し早々、そこで生まれました。その後、弟と妹を加えた7人がここで育ち、全員が「市川小学校」で学びました。特に腕白少年であった私は、学校から帰るとランドセルを放り投げて、すぐに真間川・江戸川や近所にあった多くの池での魚取り、また真間山境内やお隣りの木内別荘への侵入など遊び場所には事欠きませんでした。

 

 結婚後、一時、千葉市宮野木に居を構えたこともありますが、両親のお世話のために戻って(無論、両親は疾に天に召されましたが)、すでにこの春で37年になります。

 

 市川は、私にとって“ふるさと”以上のものです。大邸宅が次々にマンションになり、町の景色が様変わりしつつあるのは残念ですが、それでも江戸川は昔と同じようにゆったりと流れています。特に冬晴れの日、江戸川土手から眺める日没の富士残照の美しさは、今も変わりません。

 

 さて、前回の「東京大空襲の記憶」の中で、父が「次は市川が空襲される」と予想して疎開を決意し、実行した話を書きましたが、その理由ともなりますので、昭和初めの市川について少し見てみましょう。

 

市川駅前交差点の三菱UFJ銀行の地下1階に、明治32年(1899年)創業の老舗の酒店「湯浅本店」があります。その廊下突き当たりに、昭和初めの市川の様子を精緻に描いた一枚の貴重な絵地図がかかっています。題して「千葉縣市川町鳥瞰」。また図の左下に「昭和参年一月写生 松井天山」とあります。つまり、今から90年前の市川を写生した手描きの絵地図です。欄外に「市川四丁目(根本)押賀薬局所蔵、昭和52年4月ナガサキヤ呉服店復刻」と出所を記しています。

 

この絵地図を見て、まず驚かされることは、現在の市川3丁目と4丁目(根本)が総武線市川駅周辺よりも商店が密集し、繁盛していた様子です。特に、市川駅南側が「宝酒造市川工場」(戦後も暫く同地にあって、夏になると海からの南風で芋焼酎の臭いに悩まされたものです)、「北越製紙会社工場」「東京毛布株式会社」の工場があるだけで、ほとんどが田圃や沼地であったため、市川駅周辺に寂しさが漂っているのです。

 

それでは、なぜ私たちの3丁目(当時は1丁目)と4丁目(根本)が、そんなに繁盛して賑やかそうだったのでしょうか。

 

その訳は、今は学校群や病院となっている国府台に軍隊があったからです。1933年(昭和8年)7月24日現在の「陸軍常備団隊配備表」(東洋経済新報社刊『日本近現代史辞典』)を見ると、国府台には東京の第1師団に所属する「野戦重砲兵第3旅団」があり、その下に「野砲兵第1連隊(東京)」「野戦重砲兵第1連隊(国府台)」「同第7連隊」(国府台)」「騎砲兵大隊(国府台)」を抱える、全国でも名高い「旅団」の一つだったのです。

 

ですから、千年以上の歴史を持つ真間山弘法寺(ぐぼうじ)の「門前町」に加え、「軍都」としても栄えていたのです。この絵地図からも小さな町にしては「割烹」や「御料理」の文字が目につきますし、当時ではハイカラだったに違いない「カフェー」の文字も発見できます。それにしても、全国的に言って、まず軍の施設から攻撃を受けたのに、国府台(市川)が何の理由にせよ、除外されたことを今も心から感謝しております。

(2018年4月20日記 代表:大竹堅固)