恵みのしずく

恵みのしずく(10) 「恩寵の50年」(藤崎 一枝)

 藤崎信・一枝夫妻埼玉県加須のご自宅前にて:2002年11月29日撮影

 

 

 神様のお仕事をする人が一番。その愚かしい程に思える単純さに家族は、不安を隠さなかった。そして、何もわからぬままに牧師の妻となった。

 「はてな?」「どうして!」が繰り返されているうちに、無知とも思えるほどに、貧しさが苦にならない性格が幸いしてか、持ち物すべてが無くなっていた。「ああ、さっぱりした」と思った時、それまでの自分から解放されて軽くなった。これから、本当のわたしの歩みが始まる。心の中に期待と勇気が出てきた。

 三人の子が与えられ、その子らは小さな牧師館の中で育てられた。それは社宅ではない、どんなに小さく狭くても、そこは主のご支配の中にある館であった。

 教会の交わりを実感したのは、三年くらい過ぎたころか? 今、わたしの机の上に、古びた大学ノートがある。それは、苦しかった時、迷い続けたあの頃、悲しかったあの日、喜びに満たされた時、皆様から与えられ、支えられた、愛の贈り物の記録である。〇年〇月〇日・夕刻いわし五匹届く、美しいカードと共に。食卓は賑わったと、記されている。

 一冊目が終わり、二冊目になった。ふと気付くと、その贈り物ノートは、いつのまにか「恩寵ノート」と書き替えられていた。自分で書いたのであろうが、記憶にない。そして今日に至るまで続いている。その行間に、一つ一つの愛のメッセージが、今なお、さやかに美しい響きを奏でている。

 

 1969年、母を日立に迎えることになった。牧師館が狭いので、やむなく男の子二人を近くに家を借りて住まわせることにした。中学と高校の大切な時期であったが、子供たちは不平も言わずに耐えてくれた。朝晩食事に帰る二人に感謝する日々であった。72年には、新しく両親の部屋が出来、父をも迎えることが許された。

 男の子が大学に行くので、上京することになった。当然のように、宿を探さなければならない。学校の近くで、二人で通える範囲。むずかしい、なかなか見当たらず、今日は諦めましょうと話して、歩を緩めたとき、珍しく知人に出会う。その方は、わたしたちの話を聞いて、すべてを承知していたように、「わたしの家をお使いください」と。“えっ”と案内されたその家は、芝生の綺麗な立派な一戸建てであった。電話も、家具もそのまま、驚き、尻込みする母子に「よろしかったらどうぞ!」。

 二人の子は、大学四年間、その家で無償同然で過ごすことになった。卒業して間もなく、そこには立派なマンションが建てられた。

何も言わずに、ご夫妻は子供たちの卒業を待ってくださったのである。そのことについてご夫妻は一言も語らず、今日に至っている。

「右の手のしていることを左の手に知らせるな」(注:マタイ6:3)との、み言葉の通りで、ただ、ただ、感謝であり、多くを教えられている。

 娘を天に送った時、わたしは天に宝をつんだと思った。しかし、それは、あまりにも傲慢であった。主イエスが申されたように、

「神のものは神に返しなさい」(注:マタイ22:21)。そうだった。わたしの物と考えていた愚かしさと傲慢を指摘された時であった。

 

 1996年3月、日立教会を引退する。4月からの住む家は定まっていない。先生はきっといろいろ手を尽くして決めておられるのでしょう、という声をしばしば耳にしていた。その先生は、3月31日までは日立教会の牧師として神様と信徒との約束があるのだから、という考えで、他のことは考えられない・・・・いや、考えない人であり、明日の住まいは備えられるという。心の片隅では心配していたことと思う。しかし、その信念に逆らうことはわたしには出来ない。何事についても、そのように一つのことしか出来ない不器用な人である。

 丁度、1995年8月に海外に出られる教会員が、心配してくださり、すでに約束されていた方にお断りして、わたし共に「ぜひお使いください」と申し出られたので、96年4月から3年間を、これまた無償同然で住まうことになった。

 この3年間は、牧会から放たれ、自由な気持ちで、新しい交わりが与えられ、自然の豊かな香りの中で本当の休息の時となった。ここの3年間は、わたしたちにとって精神的に豊かにされ、静かに想うこと、祈ること、学ぶことの許された、主イエスからのこの上なき恵みの時であった。まさにアドナイ・エレ「主の山に備えあり」(注:創世記22:14)である。

 

 そして1999年からは、子供たちの備えてくれた家に迎えられ、大勢の新しい信仰の友が与えられ、神の備えたもう家までの歩みを続けている。振り返って、あまりの神のご計画、主の慈しみの精密さに「アーメン!」と唱える以外すべを知らない。

 わたしの今日までの歩みの中で、出会いを与えられたすべての方々、親切に励まし、強めてくださった人々、心の通いきれなかった方、すでに天に帰られた先輩たち、すべての方々は皆、主のご計画の中に、よしとされて与えられた、わたしの歩みに必要な神からの愛の使者であった。

 このように、今、50年を省みて、幾度となく、具体的な守り、助けを経験させられてきた。しかし、「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」(Ⅰペトロ1:5)。

 

 日立教会を去って、新たな交わりが次々と与えられるこの不思議、主の恵みと憐れみ以外のなにものでもない。忘れっぽくなった今、朝毎に永遠の朝に向けて、永遠からだけ知らされる、そのみ声を聞く用意をさせていただきたいと願う日々であります。

 愚かなわたしを受け入れて、忍耐づよく信仰に導いてくださった傍らの人と皆様の愛にこたえるべく、御名を称え、希望と期待をもって許される日々を歩ませていただきたいと願っています。ありがとうございます。

心からの感謝を込めて。 藤崎 一枝

 

〈追記〉

 上記の一文は、2002年11月29日(金)、東京赤坂の全日空ホテルで行なわれた「藤崎信・一枝結婚50周年 感謝愛餐会」で出席者に配られた藤崎先生の著作『結婚50周年記念説教集/キリストの恵みへの招き』の巻末に収められていたものです。

 この説教集には、日立から埼玉県加須に移られてから通われた「愛泉教会」「久美愛教会」「シャロンのばら伝道所」とそれ以前からの「聖望キリスト教会」で行なった計8本の説教が収録されており、うち3本が聖望教会でのものなです。いずれ「恵みのしずく」にも掲載させて頂きたいと思っています。

 

 「恩寵の50年」は、一枝姉が「結婚50周年」に際して、初めてまとめられた貴重な半世紀の記録です。「恵みのしずく」の前回9号で、私は“牧師の妻の鑑(かがみ)”のようなお方と書きましたが、これを読んで頂ければ納得されることでしょう。

 最後に、一枝姉の簡単な略歴を記します。

・1922年(大正11年)6月19日、北海道室蘭市に6人きょうだいの長女として生まれた。室蘭高等女学校、東京家政学院を卒業。

・1949年9月18日、東京・丸の内インマヌエル教会(蔦田二雄牧師)で洗礼を受ける。

・1952年(昭和27年)、愛泉教会にて藤崎信氏と結婚する(P.S.メイヤー司式)。2男1女をもうける。

・42年間、日立教会にて信牧師を全面的に助け、「一枝姉あっての日立教会」との噂もあったとか・・・。でも、本当に仲の良いご夫妻でした。

(2018年11月6日(火)記 代表:大竹堅固)