恵みのしずく

恵みのしずく(21)「吉枝隆邦先生を偲んで」 ―長い間のご協力をありがとう!― (大竹 堅固)

「吉枝隆邦先生を偲んで」

―長い間のご協力をありがとう!―

(大竹 堅固)

 

                                                                                                                

1.「hi-b.a.とともに歩んだ52年間」

(吉枝 隆邦)

2.「開成学園の吉枝さん」

(牧野 直之)

 

 昭和29年(1954年)、中学を終えて高校生になってからのことと思いますが、ある日、同期の吉枝君だったか宮村君が私のところに来て、「大竹君は家がクリスチャンだそうで、是非、聖研に入ってくれないか」とのお誘いでした。

 それに対して、私は不遜にも、「え、今から聖書ですか? 聖書はもう小学校2年生から読んでいるよ。今は他に読みたい本が山程あるので、遠慮するよ」と断ったのでした。

 事実、市川のわが家で集会が始まったのは昭和22年(1947年)1月24日からで、戦前「治安維持法違反」の容疑で2年間拘置されていた泉田精一牧師が敗戦後、伝道の再開・求霊に燃えての活動の一つだったのです。この年は、賀川豊彦による特別伝道集会や初めての野外礼拝が4月20日、市川国府台で行われたという記録もあります(『浅草橋教会50年史』)。

 聖書について言えば、昭和22年当時、文語訳の聖書しかありませんでした。小学2年の私にとっては難しかったと思いますが、集会の初めには必ずその日の聖書箇所の輪読があり、つかえたら恥ずかしいので、予め素読して備えました。この文語訳聖書を読んでいたお蔭で、開成学園に入ってからの戸村先生の「漢文」、板谷先生の「古文」が大好きな授業となりました。

 ちなみに、聖書は昭和29年(1954年)に新約が口語訳となり、翌年30年には旧約も口語訳となり、集会の使用聖書も「口語訳聖書」に代わりましたが、生意気にも聖書が“安っぽく”なった気がしてなりませんでした。

 また、読書については、中学2年の後半から突如“読書少年”に変身し、文学のみならず色々な分野の本を読み漁(あさ)る乱読時代が続きます。しかし、これがのちに出版編集者になって、本当に役立つことになるのです。

 

 そんな高校時代から20数年後、毎年6月に送られてくる『開成会会報』の最終ページに添付されている会員通信ハガキに、「戦後の家庭集会を再開した」との私の短信が載ると、真っ先に祝いのハガキをくれたのが吉枝君であり、宮村君だったのです。

 それ以後、市川家庭集会・聖望キリスト教会との関係がずっと続いていくのです。

 最後に、新会堂の完成が間近を知らせた『開成会会報』(第112号、平成23年6月)に書いた感謝の一文です。

 「兄(大竹能力・昭和29年卒)が入っていたので、私も迷うことなく開成へ(昭和32。高2進級前に病気で一年休学したため33年卒)。

 その後、二代目クリスチャンとして、40代になって「市川家庭集会」を再開して30年、また家の教会「聖望キリスト教会」がスタートして15年の節目の年に、念願の新会堂が間もなく完成します(11月下旬)。これまでも開成出身の宮村武夫君、吉枝隆邦君(32年卒、共に牧師)、牧野直之君、太田和功一君(36年卒、共に牧師)などが力を貸してくれています。開成は実に多士済済、ありがたい母校です。

 どうぞ新会堂にもいらして下さい。」

 

 以下の2つの文章は、hi-b.a.(高校生聖書伝道協会)の代表役員だった吉枝先生がその52年を自ら回顧したものと、「開成聖書研究会」でお世話になった牧野先生が当時の先輩であった吉枝さんを見事に活写した一文です。

(2020年2月1日記)

 

1.「hi-b.a.とともに歩んだ52年間」

(吉枝 隆邦) hi-b.a.代表役員

 

 中学時代には、人生の目的や意味は何かと心の中で質問していました。死んだらどうなるのかが心配でした。家は無宗教の家族で、そんなことを相談する相手もいませんでした。そのころ読んだいろいろの本にも答えを見い出せないで悩んでいましたが、高校生になったとき、友達に誘われて参加したのが学校内の聖書研究会で、これが一つのhi-b.a.集会だったのです。

 初めて聞いた聖書の言葉はローマ6章23節で、求めるべき方向を示してくれました。高1の夏のhi-b.a.キャンプで第一コリント15章3~4節を教えられて、イエス・キリストこそぼくの救い主だと信じました。人生の方向を見失っていた者が、復活して今も生きておられるキリストと共に生きるのだ、とわかってからは毎日が変わり、勉強にも身が入るようになりました。毎週の集会で聖書を学んで、次第にこの生き方しかないと確信するようになりました。

 でも、信仰の証しをし始めたのは高校2年の秋からです。高校3年の夏キャンプで、みことばの奉仕のために献身するように導かれました。卒業後、聖書学校に行くことを未信者の両親が黙って許してくれました。

 その当時は、大学ではなく各種学校だった「日本クリスチャン・カレッジ」で4年間学んでから、上の神学校に3年間学びました。カレッジのクラスメートのほとんどが教会の伝道師や副牧師として出ていく中で、超教派伝道団体の将来の可能性と限界を真剣に考えたかったからです。

 そして、神学校を卒業するや、直ちにhi-b.a.スタッフになりました。最初は神奈川地区を担当して、毎週6集会を指導しました。日曜日には担当地区内の教会訪問、一日おきに学校前でトラクト配布と、25歳の若さで突っ走ったと思います。

 新築のhi-b.a.センターに住んで、神奈川への3枚の定期券を使い分けて、ほとんどすべての高校に配りに行ったでしょう。大阪と名古屋を除いて、関東地方の全部の地域と集会を担当しました。

 大勢の集会もあれば、わずかな人数の集会もあって、誰も来ないで一人淋しく祈っていたこともあります。新しい集会場を見つけるのは大変でしたが、同時に楽しいことでもありました。朝早くや午後に高校生の動きを調べて、使える集会場を探すのです。とにかく、足で歩いて調査するしかありません。その頃は、ネットで調べるなんて方法はありません。携帯とパソコンをみんなが持つようになったのは最近のことです。情報源として、賢く活用したいものです。

 1973年に、初めてアメリカhi-b.a.を1ヵ月訪問したのは良い経験でした。創立者や初代のスタッフから、高校生伝道への熱情が伝わってきました。その時から、日本hi-b.a.ではクラークさんに代わって、大竹一行さんが代表になりました。外国の宣教団体の支部ではなく、日本の教会に支えられる日本の伝道団体として歩み出したのです。

 それから30年以上、実態はどうなったでしょうか。まだまだ道は険しいです。日本全国に、高校生伝道の旋風が吹き荒れるまで退くわけにはいきません。祈って協力してください。

2006年春「hi-b.a.かわらばん」(第113号)より

 

 

2.「開成学園の吉枝さん」

(牧野 直之)

 

  吉枝さんは開成学園の先輩。吉枝さんが高校3年生の時、私は中学2年生。その6月(1956年)に吉枝さんたちが、学内で映画伝道会を行った。各教室の黒板の隅に「本日放課後社会科教室で天然色映画『ミスター・テキサス』を上映します。」と書いて宣伝した。私たちはカウボーイ映画を期待して、多くの友人と共に見に行った。

  後でわかったことだが、それはビリー・グラハムの伝道映画だった。映画上映後、メッセージが語られ、最後に決心が募られた。その時、私は手を挙げて「イエス・キリストを信じたい」という意思表示をした。それから、毎週学内で行われている社会科研究部・聖書研究会の例会に出席するようになった。指導者は吉枝さんと宮村さんと古屋さんだった。

9月に、この3人に誘われて生まれて初めて渋谷のHi-b.a.学生会館(木造平屋)

に行った。今のヒカリエがあるところに東急文化会館が建築中で、鉄骨の鋲打ちの音がうるさかった。そんな中、Hi-B.A.のKick-Off集会が開かれた。キック・オフという英語の名前が、中学生の私の耳に新鮮で恰好良かった。

 吉枝さんたちは、会館に着くなり開襟シャツを脱いでランニング・シャツ姿になって、集会の準備を手伝ったりしていた(吉枝さんは、そんな恰好をしなかった、と否定していたが)。集会が始まると、夏休みに経験した証しをする時間になった。開成の先輩3人がポップコーンが弾けるように、立ち上がり次々と証しをした。「先輩たちはすごいんだな~」と、感心したことが忘れられない。

 吉枝さんは身体が小さく、高校生になっても坊主刈りで、ちょっと目立っていた。

 クリスチャンだったから、「西洋坊主」などと悪口を言われているのを聞いたことがある。高校を卒業したら、ほとんどの生徒が大学に行くのだが、吉枝さんは、JCC(Japan Christion College)という聞いたこともない神学校に行った。卒業後も聖書などを包んだ風呂敷き包みを抱えて開成に来て、聖書研究会を指導して下さった。こうして、私は高校を卒業するまで4年間、吉枝さんに聖書を教えてもらい、霊的訓練をしてもらった。

 開成の聖書研究会の文化祭での展示は盛り上がった。毎年、銀座の日本聖書協会から様々な言語の聖書を借りて来て展示した。また開成出身のクリスチャンの有名人の写真と説明、聖書の信ぴょう性を示す説明、預言の成就などを書いて展示した。聖書の教える救いを模造紙6枚をつないだ紙上に絵で描き、説明した。説明に時間がかかるから、展示教室内は人で溢れ、ラッシュアワー並みの混雑であった。聖研の展示は、開成新聞に人気と集客力の高いクラブの一つとして評された。

 この展示のアイディアは全部、吉枝さんから出た。準備も大変であった。学校に残って準備しても終わらず、毎年のように学校で泊まり、深夜に見回りに来る教師の目を逃れるスリルを味わった。ある時は、近くの谷中にある吉枝さんの家にお邪魔して、徹夜作業を続けた。中学生や高校生が徹夜して作業することの面白さと興奮、一生の思い出になった。吉枝さんも、しばしばその時のことを話された。

 吉枝さんは、私たちを浜田山にあったJCCに連れて行って下さった。吉枝さんの寮はH寮、その建物はJCCのキャンパスが国立に移ってから移動させて、浜田山キリスト教会の教会堂となった。のちに、浜田山キリスト教会に行くたびに、丸坊主姿の吉枝さんを思い出していた。

 Hi-B.A.渋谷日曜日集会の後、吉枝さんは、私を吉枝さんの教会である高田馬場教会の夕伝道会に連れて行って下さった。早稲田通りに立って、トラクトを配り、興味を示す人に個人伝道をするように、模範を示して訓練して下さった。

 最後に記しておかなければならないこと、それは吉枝さんが私にジョークの言い方を教え、マナーを教えて下さったことだ。ダジャレにも上品なものと下品なものがある。吉枝さんは、そのわきまえを教えて下さった。聞く者の心を開き、明るい雰囲気を作るものをタイミングよく言うことを。また、聞き手のマナーとして同じ冗談を何回聞いても、いつも新鮮な気持ちで、初めて聞いたように笑い、楽しむ態度の大切さを教えて下さった。

 神の不思議な摂理の下、吉枝さんと同窓になり、福音を聞き、信仰に導かれ、霊的訓練を受け、同じように青年伝道者になるように導かれた。全能の主に感謝し、御名をほめたたえる。今頃、吉枝さんは、神様に天で「よーし、Aだ、高くに挙げよう」と言われているかもしれない。

「神の働き人 吉枝隆邦先生の思い出」(前代表役員)

(2018年5月19日発行 編集・発行:hi-b.a.高校生聖書伝道協会)