恵みのしずく

恵みのしずく(35) 「聖なる地を望みて」 (安東 優)

 上記表題の一文は、私たちの旧い信仰の友である安東優(まさる)兄弟が、2014年1月19日(日)に聖望キリスト教会で語った礼拝メッセージです。
 彼は、その約3年前の「東日本大震災」を機に、長い勤めを辞め、65歳から東京神学大学に入学し、間もなく2年間を終え、赴任先の教会も決まっていたのです。それで前年12月に、3月の卒業前に“お別れメッセージ”をお願いした訳です。「2月・3月は忙しくなるので、1月なら何とか…」ということで、1月19日が決まりました。
 そして、さすが真面目な彼のこと、日も経たぬうちに、以下のクリスマス・カードと一緒に1月19日の宣教原稿も届いたのでした(これらすべても、例の“ケンジーの宝物入れ”から発見!)。

 「聖望教会のXmas楽しくお過ごしと思います。1月19日の説教原稿をお送りしますので、宜しくお願いします。詩篇・賛美等につきましては、お選び下さればと思います。12月14日に学生寮を引き払い、1月から通学に切り替え、「飯盛野教会」(註:兵庫県加西市)への赴任に備えます。19日、訓子(註:彼の最愛の奥様)と二人でお伺いいたします。

 

「聖なる地を望みて」
(ヘブル人への手紙11章13〜16節)

 アブラハムは、ハランの地で神からの約束を頂き、「未だ見ぬ」約束の地を目指して旅立ちました。行き先も知らず、神に従った彼の第一歩は、神の民イスラエルの歴史、またキリスト教の歴史となり、その輝きは今、全世界に及んでいます。
 しかし、「あなたは多くの国民の父となる」との約束を神様から頂いたアブラハムの生涯は、ハランを立ち、カナン、エジプト、ペリシテと寄留の民、荒野の旅人でありました。彼の後を継ぐべき子孫はイサクただ一人、土地といえばマムレのマクペラに得た小さな墓地だけでした。しかし、彼は天にある故郷を遥かに仰ぎ見つつ、信仰を抱いて神の御前を雄々しく、喜びを持って歩み続けました。
 それは今日の聖書箇所、ヘブル11章13節に「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです」と語られています。市川聖望教会の由来でもあります「聖なる希望」“Holly hope”と言えるでしょう。
 私たちは、限りある人生の中で許されていること、それは唯一つ、神の聖なる約束、天の御国を信仰により望み見て喜びつつ、その大切な生涯を神の御前に歩み続け、次の世代に確実に信仰のバトンを手渡すことでありましょう。この受け継がれるべき信仰は、キリストの身体、愛の共同体である教会の中で豊かに育てられます。
 皆さまお一人一人が主イエス様と出会い、主の教会で養われ、信仰の歩みを重ねられる中で、神様からの豊かな恵みを経験しておられると思います。同様に、私も神様の不思議な導きを経験致しました。イエス様と出会い、伝道者として献身の道をお備え下さった小さな物語を、今日は証しさせて頂きたく思います。
 私は現在、東京神学大学4年に在籍し、3月に卒業後は兵庫県加西市の「飯盛野教会」に遣わされる予定で、学生最後の学びの時を過ごしています。66年の人生を振り返る時、尚も旅の途上であること、神に示される地に旅する者であることを深く実感しています。

 戦争直後に、南方の伝染病が医薬品の全くない日本に蔓延(まんえん)し、多くの老人・弱者が死亡しました。祖父母も、私の誕生の直前に疫痢(えきり)で病死しました。看病の母も疫痢を患い、私が胎内にいる時は避病院に隔離されていました。医師は、「堕胎しないと母体が危ない」と堕胎の診断を下しました。母が「死んでも生みます」と譲らなかったため、辛うじて生を受けました。
 高校3年の5月に腎盂炎(じんうえん)を患い、半年間は休学しました。友人の死と同じ病であり、強く死を意識しました。奇跡的に健康が回復し、出席数が足りたかどうか、何故か卒業はできました。
 病気が回復した折角の身体ですから、大切にしたかと言えば真反対で、一年の大半を登山に明け暮れていました。夏山から四季を問わず、冬山へも。また30m近い危険な岩場を素登りする危ない山登りへとエスカレートしていました。
 母は朝新聞を開くと、遭難記事に息子の名前が載っていないかを真っ先に観ていたと、後に語ってくれました。
 25歳のクリスマスの時期に、琵琶湖・北面の比良山で雪の中を歩きました。その途中で高校生2人の遭難に出会いました。登山からの帰り、阪急芦屋川の駅を降りると、クリスマスの燭火礼拝の案内を手渡され、泥だらけの登山姿で生まれて初めて教会を訪れました。若者の死に心が動いたのでしょうか。説教は分かりませんでしたが、礼拝の後に牧師や若い人たちと語る中に、何か温かいものを感じました。
 その後、2回ほど牧師に下宿までお訪ね頂き、申し訳ない気持ちで礼拝に出席するようになりました。2月中旬に洗礼を受け、4月から土曜学校で20〜30人の子供たちと過ごすようになりました。日曜は礼拝、土曜日は土曜学校にと、山に登る時間は全くなくなりました。
 「息子が教会に通い始めて、山登りを止めた」と大喜びした母は、その秋に教会で洗礼を受け、数年後には「岡山聖心教会」に定年後の父と共に通うようになりました。
 教会は芦屋福音教会、清水ヶ丘教会、市川カルバリーチャペル、柏教会と多くの人々との心温まる交わりの機会を頂きました。特に私たち夫婦は、教会学校で沢山の子供たちと触れ合う機会が与えられ、芦屋の頃の子供たちはもう50歳近い中年になっていますが、それらの思い出や、今でも続く交流は掛け替えのない宝のように思えます。市川聖望教会の皆様には、わが家の3人の息子たちの成長を見守って頂きましたことを、とても嬉しく感謝しています。献身し東京神学大学で学び始めたのは65歳で、むしろ変わり種と言えます。

 実は、私は火力・原子力発電関連技術の仕事に延23年、研究所計画に21年、計43年間を技術者として国内外で働きました。
 2011年3月11日、東日本の太平洋岸を地震と津波が襲い、沿岸部の原子力発電所に甚大な被害を与えました。当日は、約80名の社員が3ヶ所の原子力発電所に勤務していました。女川原発・福島第一原発にも49名の社員が勤務し、もし夜間に津波が襲っていれば30〜40名の津波被害者が社内に発生していたと思います。
 福島第一原発の津波被害は壊滅的で、翌日からは水素爆発により放射性物質が周辺に拡散し、環境や人々の生活に大きな被害をもたらしました。生々しい映像は、私たち原子力発電に関連する技術者にとって悪夢のようなものでした。津波は非常用電源設備を飲み込み、全電源が失われ、原子炉頂部の使用済み燃料の過熱で水素が発生し、爆発しました。
 私たちは、東電輸送チームと1年半前から使用済み核燃料の保管設備を韓国で製作するプロジェクトを進めていました。今回の爆発原因となった使用済み核燃料の安全性確保のための設備そのものでした。各原子炉の頂部冷却プールの使用済み燃料の保管は、すでに限界に近づいていました。危険は十分に予測され、担当部門は予算の執行を数回にわたり申請していました。しかし、安全投資は利益を生み出す投資ではなく、半年伸ばしに延期されました。そして、3月11日の悲劇が起こりました。
 私の44年間の技術者としての仕事は、いったい何であったのか? この、営利追求の社会構造の一歯車ではなかったか?
 キリスト者として、人生で大切なことをやり残しているのではないかと自問致しました。このような時期に、教会の神学校日に、「日本の教会は多くの献身者が求められている」との説教があり、東京神学大学への進学を決心しました。
 2年間、若い人々と触れ合いながら、共に学ぶ充実した恵みの時であったことを感謝して振り返ることができます。飯盛野教会に11月中旬に家内と共に訪れました。
 前任の牧師の2年間の病、さらに無牧で1年、教会は試練の中にありました。私たちの赴任を、祈りの中にお待ち頂いていることを肌で感じました。
 「私と私の家族は共に主に仕えます」との思いを新たに神様と教会に仕え、御国をめざす「愛の共同体」として教会を共に建て上げることを願っています。

 さて、冒頭のヘブル書11章の人物として、前半にはアブラハムの約束の地カナンへの旅立ちが、後半にはモーセの出エジプトが語られます。
 イスラエルの民は、エジプトの地で奴隷として過酷な労働を科せられ、神様は民の嘆きを聞かれ、指導者モーセを立てられました。
 モーセはイスラエル数十万の民を率いてエジプトを脱出し、葦(あし)の海を渡り、シナイの荒野を40年の間、彷徨(さまよ)いました。モーセを通して神様から律法「十戒」が与えられ、信仰共同体としてのイスラエルが整えられ、ついにヨルダン川を渡れば、いよいよ待望の約束の地・カナンに入る。…その時、神はモーセにその使命の終了と彼の命の終焉をお告げになります。
 モーセはネボ山に登り、遥かに緑溢れるカナンの地を望みますが、その地に入ることなく神の身許(みもと)に召されます。「これらの人々はみな、信仰を抱いて死にました」とある通りです。
 私は、以前は「モーセはさぞかし残念であったろう」と思っていました。福島第一バプテスト教会の佐藤彰先生も、同様に感じておられたと著書の『流浪の教会』に記されています。
 福島第一バプテスト教会は、200名の会員が今後100年の幻を実現するため、数年前に新会堂を建設し、未来をめざして進んでいました。
 今回の原発事故の原発から数百メートルに隣接しており、事故直後に裸同然で避難し、その後は教会員60名と共に過酷な流浪の旅が強いられた。200名の信徒のうち60名がバスや車で福島・会津・米沢・奥多摩福音の家と1年半流浪し、現在はいわき市に福島浜通りに向け飛び立つ鳥をイメージした教会堂を建設し、礼拝を守っておられます。四散した信徒の心の柱となる教会です。
 奇しくも3月11日生まれの佐藤先生は、流浪の最中に、このように記されています。
 「私はこの日のために生まれ、牧師として召された。私が生きている間に浜通りの懐かしい会堂に教会員の皆様と共に帰れるかどうかは分からない。しかし私は、この愛する教会の人々と苦難を共にするため遣わされた。今こそが自分の人生の最高の舞台である。」
 苦難が続く流浪の旅の中で、試練の渦中にある群れをモーセやイスラエルの民の物語に重ね、自らを励まし、神への信仰を新たにされています。
 ヘブル書11章13節後半で、「はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです」と記されています。

 私たちの生涯も、同じことが言えるでしょう。主の祈りに「御国が来ますように」と祈ります。地上に争いは絶えず、欲望の渦巻く世界、罪の現実を目の当たりにします。私たち、あるいは聖望教会と関わりのある人々の間にあっても、悲しみや嘆きは襲いかかり、罪の世に神の到来を待ち望む思いに駆られます。
 しかし、私たちは喜びます。神への信仰により、この約束の実現を見るのです。今なお、「神の国」はこの地上に実現していません。しかし信仰によって、神の御国の到来を確信して喜ぶことができます。市川聖望教会でも、間もなく遣わされる飯盛野教会でも同じでありましょう。
 教会は、イエス様の救いの御業により罪贖われた者の集い「愛の共同体」と言えます。しかし、決して罪に満ちる世の現実の中から抜け出ることはできません。この罪の現実の中に、暗黒の中にこそ、光としての教会が毅然として立ち、明るく輝くことが求められます。
 私たちは約束の地、カナンを目指して荒れ野を旅する流浪の民と言えます。アブラハムがそうであったように、モーセがそうであったように、私たちが生きて約束の地に入ることはできないかも知れません。イサクに、あるいはヨシュアに希望を託したように、次の世代に望みを託すことができる信仰共同体、それが主イエスの教会と言えます。
 アブラハムとモーセの間には、実に700年の隔たりがあります。長い歴史の流れの中で、アブラハムへの「あなたの子孫を海の砂のように、空の星のように増やす」との神様の約束が実現していることを私たちは知ります。
 この700年の歴史を貫くもの、それは真の神様への信仰です。「信仰とは望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです」。
 聖書の人々は信仰を抱いて、その人生の旅路を終えました。その各々の馳せ場を、最もふさわしく、雄々しく生きたのです。その先に、救い主イエス・キリストの出現と十字架の救いがありました。
 私たちもまた、教会の群れ、一つの家族として、愛の共同体として神の国を待ち望みながら、今日を喜びと感謝に満ちて歩みます。この一週間が聖望教会に、皆様一人一人の歩みの上に、神様の豊かな恵みがありますようにお祈り致します
2014年1月19日(日) 安東 優
bless you & all your families 2013・12・25 安東 優」
( 2021年4月10日記 大竹 堅固)