恵みのしずく

恵みのしずく(34) 「神のとき(*カイロス)」 (柳沢 美登里)

 上記表題の一文は、「声なき者の友」の輪(FVI:Friends with the Voiceless International)のカタリスト(註:catalyst;①[化]触媒②〈触媒的な〉要因となる人や物)の一人である柳沢美登里さんが、その会報「祈りの通信:21世紀にキリストを生きる」(2019年11月号)に書かれたものを、一部改訂したものです。

 柳沢さんは、日本とはまた違った異文化・異教のインドやバングラデシュの数少ないキリスト者たちと30年近くにわたって種々の活動を共にしてこられた稀有(けう)な方です。

 1960年生まれの日本人として、彼女はその信条を次のように語っています。

 「戦後生まれの私の戦後が本当に終わるのは、私たち日本人ひとりびとりが、20世紀に犯した同じ過ちに陥ることがないように、お互いに価値を認め、相互に補い合う相互依存を実現する新しい世界の枠組みを造り、実践の一歩を歩み出す、そのときなのかもしれない」と。今後も、その実践の一歩一歩が主に守られて進んでいきますように!

(2021年3月22日記 大竹 堅固)

*「カイロス」:[ギ]Kairos。カイロスは神意によって配剤され人間に決断的応答を要求する決定的時点。ギリシァ語旧約聖書(七十人訳聖書)は、カイロスをヘブライ語の「時」に当てることが多い。新約聖書では、カイロスは神の国の接近(マルコ1:15)に至るまで、その線分上に配置されたそれぞれ一回的かつ決定的時点を表す。カイロスが人間に決断を要求する度合いは、旧約聖書にくらべて格段に強まっている(ローマ13:11、ガラ6:10、エペソ5:16、ルカ12:56、19:44)。

(『岩波キリスト教辞典』より)

 

 

「神のとき(カイロス)」その1

 

 「お義姉さん、私のケータイメール、読みました?」

 インド、バングラデシュ訪問から戻り、私がホッとしながら開けた玄関の音を聞きつけると、休みだった弟のお嫁さんが2階から駆け下りてきました。

 「ケータイ? スリのプロが溢れるところに、そんなものは持っていきませ〜ん」と返事する間もなく、彼女は続けました。「お義父さんが入院したんですよ!」

 この一言で、私の海外モードは吹っ飛び、あわててバングラ服から着替え、症状を聞きながらお嫁さんと共に病院に駆けつけました。

 10年以上前、心臓の血管にステントを入れるほど動脈硬化が進んでいた父に、いつか脳梗塞も起きるのでは?と予想していました。ついに、そのときが来たのです。父の病室に入った瞬間、私は力が抜けそうになりました。入院3日目の父は、想像したより遥かに元気で、リハビリをしていたのです! 立つこともできました。お嫁さんは父の発症後の様子を見て、翌日には私が帰りの飛行機に乗るからと、緊急連絡をしないで待っていてくれたのです。彼女の冷静な判断に感謝するとともに、そのような知恵を彼女に備え、私が遣わされた場で集中できるように取り計らってくださった主の深い配慮に、心から主を崇めました。

 この数カ月間、来年にかけての予定が不思議な形で明らかになり、調整されていく体験をしていました。こうして、主が深遠なご計画を備えておられることを感じていた矢先でしたので、私の帰国直前に父が軽い脳梗塞で入院したことは、父にとっても、私にとっても、神様からの大切な「とき(カイロス)」を示されたと思わずにいられませんでした。

 その父は、10日くらいで退院できそうという予想とは裏腹に、腸閉塞を再発してしまい消化器病棟に移りました。高齢で動かなければ、あっという間に筋力が落ちると聞いていましたが、その通りに筋力が衰え、8日間の絶食と安静後、父は自分で体を動かすことも難しくなりました。今後を決める段階で、リハビリで気力が戻った父は、リハビリをしてもっと良くなりたいと話しました。近日中に回復期リハビリ病院に転院し、数カ月過ごすことが決まったところです。

 9月まで、父は私が運転する車で礼拝に集い、教会の方々に声をかけてもらい、とても喜んで過ごしていました。2年半前、主イエス様を礼拝する者として回復された父に、主は恵みの時間を与えて下さいました。さらなるリハビリで、父の体力が回復し、共に主を見上げる礼拝にまた集えたらと祈っています。

 すべてに美しい時を備えて下さる神。すべての出来事に神のとき(カイロス)を見出して、主を賛美しています。

 

 

「神のとき(カイロス)」その2

 

 「まさか…」。夜10時半を過ぎたデリーの空港。荷物のなくなったターンテーブルが、私の目の前でゆっくりとスピードを緩めました。ついに見慣れた私のスーツケースは現れなかった…。「これが、今まで他人事で聞いていた“荷物紛失”ってこと?」。日本時間は深夜過ぎ。ボーッとした頭のスイッチをフルモードに切り替えようと、脳がもがく…。

 国際線の旅35年にして初めての“荷物紛失”体験。人生いくつになっても「初めての体験」は刺激的で緊張するものだ、と思わず笑いが込み上げました。ここはインドです。誰か親切に対応してくれるでしょうか。制服を着ているスタッフを捜し、事情を話しました。彼女からの質問でコトが見えてきました。

 「そういえば…」成田で滑走路に向かう飛行機が渋滞に捕まったのです。私は乗り継ぎ便になんとか間に合ったのですが、私のスーツケースは間に合わなかったらしい…。申告書類を2枚書いてもらい、私がインドにいる間に荷物が手元に届くことを祈りながら、深夜零時過ぎに空港をあとにしました。

 「いったい今回のインド訪問はどんなことになるのだろう?」。ため息が出そうになりました。すでに今回の訪問のハイライトだった長年の協力者と今後を話し合う会合は、キャンセルされ、後半1日のみとなっていました。彼らがこれから引っ越す先の北東部で、1週間前に百年に1度の豪雨が続いて町全域が洪水になり、下見に行っていた家族を連れ帰る必要があると4日前に連絡があったのです。けれども、午前1時過ぎに宿泊先に着くと、不思議な平安と喜びが満ちてきました。

 「主よ、感謝です! たとえ、荷物がなくても、ゆっくり休めるところを備えて下さってましたね!」

 翌朝、目が覚めると、30年近く前、とても貧しかったバングラデシュで体験した思いが、新鮮に甦ってきました。「生きるために、本当に必要なものは何か?」。神の目にかけがえがない、ギリギリで日々を暮らす貧しい人々と共に歩んで、彼らの生き様から多くのことを教えられたのでした。

 彼らから教わったことは、21世紀が20年経つ今も、変わらないことに気づかされました。個人的に必要なものはほとんどなく、神を愛し、隣人を愛し、被造物を貴(とうと)び支えるために必要なものを神様が備えて下さることを。その時々、多すぎることも少なくて困ってしまうこともないようにして下さるのです。短時間にたくさんのモノを作り、手にするという「効率性による消費文化」に浸り切った私たちから、その時々に必要でちょうど良い量を感謝して受け取るという姿勢が消えてしまったのでした。神様は「時」の主、すべてのモノの主なので、それぞれの人や状況に応じて最適な配分をして下さり、配分という働きに私たちが参加するように呼んでおられる。でも、私たちはすぐ忘れてしまいます…。

 さて、キャンセルされた会合の代わりに、インド社会とキリスト教会の今を伝える時間が取れる、と快く受けて下さったMさんに会いました。長年、忠実に仕えられ、今はデリーの小さなグループの責任者をされています。

 インドでは2019年5月の総選挙で再度、政権を握ったヒンズー主義政党の下、想像していた以上に社会は過酷になっていました。ちょうど、「祈りの通信」をまとめていた2019年11月上旬、27年間論争していたアユードヤ・モスク襲撃地はヒンズー教の聖地であると、インド最高裁が判決を出しました。

 これに関連して、NHKBSのワールドニュースで、インドの今後を注意深く見守る必要があると京都大学の教授が語りました。インドの現状分析は今回、私が聞いてきたこととほぼ同じでした。中央政権に留まらず、地方行政、教育、メディア、そして司法までトップがほぼヒンズー主義派の人々にすげ替えられたこと。今回の最高裁判決にも現れたように、民主的憲法に基づく手続きが骨抜きにされていること。複数の知識人が政党政策へ反対の見解を公にすると、「国家への反抗」とみなされ、訴追に。

 どうして、そのようなことができるのでしょうか、とM氏に問いました。すると、1924年以来の彼らの百年の計画だから、という答えが返ってきました。

 英国植民地時代に、ヒンズー教保守派は、インドをヒンズー教国家にする大望を掲げ、「民族奉仕団」と呼ばれる組織を創立し、インド全土で人々を訓練してきたのです。現首相も訓練を受けた一人でした。現政権2期目最後の年2024年は、彼らの満願成就の年なのです。

 ヒンズー教以外の宗教への締め付けも、さらに厳しくなりました。硬軟含めた手法で、イスラム教やキリスト教グループの切り崩しを図っています。残念ながら、インド・キリスト教会の最大の弱点は、過去半世紀、海外資金に依存してしまったことだと、長年の同労者が自戒を込めて話してくれました。海外の資金提供団体は、インド・キリスト教会の真の自主性を育てられなかったことを悔い改めるべきだし、それに甘んじてしまったインド・キリスト教会の反省と発奮が求められるところです。見方によっては、インド人キリスト者が真の自主性を身につける好機なのかもしれません。

 社会が変化する中、「インドのキリスト教会は、どうしているのか?」と伺いました。M氏は、9月後半にグループ主催で行なった小さな会合の話を紹介してくれました。

 その話を聞き、主はこの集まりを私に知らせたかったのだと確信しました。私の計画ではなく、神のご計画が成ったのでした。その集まりでは、政権2期目で加速するヒンズー国家体制づくりの説明のあと、「現代のインド教会が関わるべきこと」と題して、S牧師が教会の役割を聖書と近年の書物から掘り下げて発表したそうです。寄り道したスーツケースが届くのを待ちながら、私はそのレポートを読み、思いめぐらす時間を過ごしました。

 S牧師は、宗教至上主義は実質的には「全体主義」であると考察し、そこで求められる神の民の役割について、W.Brueggemannを引用して「預言者の働き」を果たすことと結論づけました。それは「周囲の主要文化の意識や見方とは別の意識や見方を養い育て、強めるもの」で、危機の社会に置かれたキリスト者の対比を表していました。

 さらに、旧約の預言者エレミヤが活躍した時代背景から「歴史は権力者という人間によるものではなく、神によって描かれ、目的を与えられたもの」とし、支配勢力への「対抗物語」のシャローム(註:「平和」を表す語。旧約聖書では、無事であること、完全であること、健全であることを意味する)が、目に見える過酷な権力者たちの土台を崩壊させるものだとして忍耐の歩みを勧めました。

 「『真理以降(Post-Truth)社会』は、21世紀に特有なのではなく、「エデン以降」の全世界が常に「真理以降」であり、虚偽・嘘が支配する社会だ」と論じていました。そこで「預言者的共同体」である神の民の実は、神が聞いておられ、神が答えられ、神が見い出され、神が解放してくださり、神が回復される場を示すことだとまとめたのです。

 教会内で価値観が異なる多様な世代の存在に対しては、J.Edwardsに言及し、「あらゆる世代がなすべきことは、最高の贖い主がどの方向に動いておられるかを見出し、その方向に動くこと」と言います。S牧師は、「それぞれの民族・国におかれた預言者的共同体としての神の民の役割は、神が願う変えられた姿のモデルとして生き、そのような変化を起こすカタリスト(註:本篇文頭を参照)となること」だとチャレンジしました。会合の参加者は、社会の危機に応答する包括的な教会の役割に深く共鳴し、これを実践して生じる課題を話し、祈り合うフォロアップの会合を続けたいと願ったそうです。

 最後に、M氏に「この時代の若者たちに必要なことをどう見ているのか」を尋ねました。「彼らが自分たちで考えられるように、適切な質問をし続けること」と答えてくれました。激動の社会で必要なのは「答え」そのものではなく、聖書に基づき自分で考え続ける力でした。

 困難と好機が隣り合わせる危機を迎え、目覚めたインドのキリスト者と教会から、日本人キリスト者・教会として新しいことを確認するための訪問に思えました。このように「新天新地で完成するすべての多様な民族の相互のつながり」に向けた21世紀のあり方の一端に出会う機会に導いて下さった主に心から感謝して、これからに向けて主のみ旨を思いめぐらしています。

 

〈南アジア、歴史に織りなされた神のみ手〉

 

 人生いくつになっても、「新しいことを学ぶ」ことは刺激的です。バングラデシュに出向いて30年近くになりますが、その地域はムスリム(イスラム教徒)が比較的多く暮らす地域だったので、第二次大戦後、インドと別れて独立したと聞かされてきました。けれども、そもそも7世紀にアラビア半島で預言者ムハンマドが啓示を受けて始まったイスラム教が、どのように南アジアに広がったかを説明してくれる人はいませんでした。

 バングラデシュで奉仕を始めた頃、「僕の古い祖先は仏教徒だったのさ」と言われ、そう言えば、釈迦が生まれたのは隣のインドだったと、ムスリム社会のバングラデシュを身近に感じたことを思い出します。

 今、バングラデシュの若い世代では、ベンガル語を話し、ベンガル暦があるベンガル文化を当然としながら、ムスリムという生活に根付いた宗教が基盤でもあることに、アイデンティティの揺らぎを感じる人が増えているそうです。

 イスラム・テロ組織に加担してしまった例もあります。そのなかで、私の元同僚は生き方を転換したムスリムの人たちにベンガルの歴史を知ってもらう必要を、この数年、痛感するようになりました。協力もした研究機関の校長として、「南アジアのムスリムの歴史:スフィズム」のセミナーを企画し、「ぜひ、参加してほしい」と連絡してくれたのです。

 イスラム教は、武力によって人々を強制的に回心させたと思われがちですが、実際のところ、どうだったのでしょう。

 1300年代に中東のスンニ派のなかに、豪勢な生活をする権力者たちと一線を引き、質素な生活を始めたグループがいたそうです。この人たちは「スフィ(安い布)」と呼ばれました。彼らは、イスラム(アラビア語で「平和」)の教える生き方で示そうと、安い布を身にまとって質素な生活をし、抑圧された人々に親切にしながら、教えを伝えて東に向かいました。

 インド亜大陸ではヒンズー教、その周辺では仏教が盛んな頃でした。けれども、どちらの権力者たちも民衆をひどく虐げていました。ですので、貧しい人々にとって、自分たちと似たような服装で思いやり深く関わってくれた中東の人の教えは、魅力的だったのです。

 スフィの伝道師たちによって、14世紀に南アジアやベンガル地方でイスラムへの大規模な回心が起こりました。伝道師の一人は、近年、ダッカ国際空港に名を冠されたシャー・ジャラルです。中東のムスリムによる中世のベンガル地方への伝道の詳細は、バングラデシュの高校の歴史にはあまり触れられていないそうです。

 私はこの話を聞きながら、ベンガル民族は本当に愛されることを渇望していたのだと思わずにいられませんでした。主イエスが、生き様とその体によって、真実の愛と義を示されたのですから、キリスト者はまず公正・義と愛の行いを表し、人となりを受け入れてもらって、聖書の言葉を語るとき、真実の愛が伝わる筈です。講師である友人は、ベンガル民族への真の希望を参加者たちに熱く語るのでした。

 私たちも、主イエスの体なる教会を通してイエス様の愛に触れ、主イエス様に語られて、この方を信じたのでした。この方を慕い、この方に従う歩みを、こうして皆様と共にできますことを主に心から感謝いたします。