恵みのしずく

恵みのしずく(28)「野のゆりの美ーアートという人生」(マコト・フジムラ)

「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。」(マタイ6:28)

 

 上記表題の一文は、2010年11月28日(日)アドベント(待降節)第1主日に、長年の友であったアーティストのマコト・フジムラ兄弟が、新会堂でのトップ・バッターとして語ったメッセージです。前日の夕方、ニューヨークから到着したマコト兄、ハワイからの大竹能力兄など礼拝出席者80名。昼食後、午後2時からの「献堂式」(Ⅰ)に新たに来られた61名を加えた計141名が「新会堂」の完成を祝った。ちなみに、翌週12月5日(日)の午前の礼拝(宣教:藤崎信牧師)出席者78名(午前で4名が帰られた)。そして、午後の「献堂式」(Ⅱ)に新たに来られた方64名を加え、計138名とほぼ前週に変わらぬ盛況さで「献堂式」を終えることができた。まさに感謝! 感謝!! 大感謝!!! でした。

(2020年8月18日記 大竹 堅固)

 

 

 聖望教会の新会堂の記念礼拝に招いて頂いて、誠に光栄です。私の作品「Sacrifice」(犠牲)そして私の親友だった故松田一弘兄、奥様の及川美樹姉の作品を含むこの会堂、アートと教会をコミュニティーで結ぶ試みは、私の心に感動をもたらします。この“グルメの教会”ともいえる聖望教会が市川市の恵みとなりますように。また、この場から生まれてくる会話と、キリストから流れる愛を体験することができ、皆さんとこのような交流を持てる幸いを感謝しています。

 アーティストである私は、なぜアートというものが大切であるのか、この現代社会で必要なのか、というようなことを教会の方からよく問い掛けられます。マタイの6章は、そのような質問に対しての「答え」でもありますが、実は、私の長男タイ君の名前のミドルネームをマタイ(Taylor Matthew)と名付けたのも、この聖句を中心に育てたいと思った私の想いです。

 芸術家として、3人の子供を育てるのは、奇蹟的なことであって、学生の自分に子供3人の家族は予想もできませんでした。東京芸大の大学院に入った頃は、子供がいたら大変、夫婦で精一杯とも思っていました。不思議なのは、今考えると、3人の子供のいない私は考えられないのです。毎日、子供たちのことを心配することによって、自分勝手な私の焦点が、自分から他人に置き換えられる訓練だったのかも知れません。

 実は、タイ君が生まれたのも、私が信仰を持って間もない時で、タイ君の成長は私の信仰の歩みの過程の印でもあるでしょう。私の家では、今一番下のリディアが大学受験の時となり、妻のジュディーと私にとっては、あっという間に20数年の体験を振り返ってみる時期になってしまいました。その間には色々なチャレンジがあり、心配との戦いでもあり、私たちの目の前が今「グラウンドゼロ」となってしまったニューヨークでは、特に奇蹟に感じます。このマタイの聖句は、そのような心配に対して直接心に語り掛ける箇所です。

 私たちは、心配に満ちた毎日に生きています。芸術家でない方、芸術とは関連のない方でも、心配に関しては同じです。皆、「心配」のアーティストです。想像力は素晴らしく、そして恐ろしく創られています。私たちは、どんなに小さな心配も、心の中では大きく感じてしまいます。この世の不安に対して、私たちはその問題を解決する前に、イマジネーション(想像力)を使って、問題を大きくしているのではないでしょうか。特に親の心は、心配の心でしょう。それは、子供が大人になった今も同じです。

 しかし、イエス様は、この箇所に「心配するな」と命令しています。聖書は「神は愛です」と書いています。神は愛に満ちていて、恐れがないのです。「心配」のアートよりも、「愛」の芸術、そして私たちの人生がその「愛の芸術」に変わっていく道を聖書は与えてくれます。イエス様は、その「愛の芸術」をこの世にもたらし、またその「愛」を徹底的に行動に移し、自らこの世の「グラウンドゼロ」に踏み込み、「愛の冷えた」この世の中で、恐れを愛に変えたお方なのです。

 次に、マタイの6章から、三つの真理を拾っていきたいと思います。三つとは、⑴ 愛のギャップ、⑵ 愛の哲学、そして⑶ 愛の力です。

 

  • 「愛のギャップ」

クリスチャンはよく、このマタイ6章の箇所の「心配するな」という命令を信仰のステップとして見ているかも知れません。この後半の有名な箇所「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(33節)をモットーにして、生きる方も多いと思います。心配というものが私たちの心の毒であるならば、その毒を解毒する薬はなんでしょうか?

クリスチャンに対してこの質問をすると、大半の方は「神の国とその義とを求めること」と言います。もちろん、この答えは筋が通っていますが、あるギャップがその答えに生まれます。つまり、「心配」の箇所から「神の国」の箇所の間に隠れている心理を、私たちは見逃してしまうことが多いのです。

 そのギャップには、「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい」(28節)、「空の鳥を見なさい」(26節)というイエスの言葉です。問題から行動に走る前に、周りの自然の世界を観察しなさい、つまり芸術家のようになれ、ということをイエスは言われているのです。

 芸術家は、野のゆりをスケッチしたり、ぼーっとして飛んでいく鳥を見ています。でも、その出来上がった作品を見ると、そこに永遠性が捉えられているのです。あっという間に消えていってしまう世界が、そのキャンバスに、音楽に、詩に、そして動く体、建物に彫り込まれているのです。「見る」ことは、アーティストの責任です。しかし、ここの「見る」という言葉は、「考え直す」というニュアンスがあります。つまり、目を向けるだけでなく、じっと観察して、深くその真理を問いなさい、ということです。

 「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい」。この言葉は、芸術家の私にとって「命令」だと思っています。この一言に芸術の源を感じます。

 このギャップは、「愛のギャップ」と重なっています。愛は、問題と答えのギャップに生まれる、目に見えない存在です。人と人の間に生まれるギャップ、憎しみや心の傷を超え、癒しを与えるのが愛です。

 芸術家のあり方が社会の理屈、ある利益と反しているように、愛を実行することは自分の利益にならず、「損」をすることでもあります。こんなことをしていたら、自分にメリットがない、後に何も残らないと思いがちです。なぜ老人ホームでボランティアをするのでしょうか? なぜ仲間はずれになっているクラスメートに声を掛けるのでしょうか? なぜ結婚して同じパートナーを続けて愛するのでしょうか? 愛を知ることは、無駄な行為を使い捨てる行為、はかない美の中、愛の芸術家になることではないでしょうか? 愛することは、人生のギャップに育つ「野のゆり」なのです。

 日本の文化に言われる「この世の無常」とは、花の短い命を見ることによって感じます。その一時的な美を感じることに、イエス様は、「永遠の命」の可能性を訴えているのです。これは、アメリカでは逆説的なパラドックスと言いますが、日本の文化にはこの点において、欧米の文化よりも理解が深いでしょう。「もののあわれ」と言われる日本文化の根底に流れている美が、このマタイの箇所にすでに感じられるのです。

 しかし、その悲しさに満たされ、望み無しに生きるのではなく、聖書の約束には、こうあります。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」。

 「これらのもの」とは、永遠の復活の世界であって、無限なる可能性(Generative)であります。その無限なる可能性は目に見える力でなく、目に見えない、消えていく、「無駄遣い」のリアリティーを通して体験できます。小さなささやき、普通聞こえない人生の鼓動、朽ちていく美の中のような体験に、新しい、大きなリアリティーを感じることです。それはアートなのです。

 美味しい食事も似ています。考えてみると、美味しい食事は一時的で、消化して消えていく美です。しかし、その体験は触れ合いや会話を通して、新しく永遠性を持ち始めるのです。食べるものだけでは、人間は生きていけないのです。人間には会話と触れ合いがないと、心が死んでいってしまうのです。物質的社会に慣れてしまった現代人は、この心の貧しさ、魂の病を無視して生きています。でも、魂の飢えはどんどん増し、「思い煩い」の文化を創ってしまいました。そのギャップに住む私たちは、どのように生きていったら良いのでしょうか? そこには「愛の哲学」を学ぶ必要があります。

 

  • 「愛の哲学」

愛の哲学には三つの柱があります。それは「美」、「真(理)」と「善」です。世界は、この三つの柱が常に支えているのですが、その柱は目に見えない柱です(良い建物は、柱が見えないように創られているのです)。その建物の土台は、目に見えない犠牲(サクリファイス)です。

 東大の名誉教授の哲学者・今道友信先生が、あるインタビューで、「美」「善」と「義」という漢字について面白いことを述べました。「美」「善」と「義」は、皆「羊」が上に乗っています。今道先生は、この「羊」を犠牲のシンボルだとおっしゃっていました。つまり、美は大きな犠牲、善は社会の決まり事(口)に入る犠牲、義は己(我)の定義からの犠牲を払うことです。

 この聖望教会のコレクションの私の作品も「サクリファイス」という題ですが、この聖望教会の建物の影には、大竹夫妻をはじめ多くの皆様の犠牲の重なりがあります。その結果、今、私たちはその恵みの中で礼拝を持つことが出来ます。礼拝とは、過去の土台の上に将来を築く行為です。

 この中で「美」は一番大きな犠牲、自分や社会を超越する犠牲だと、今道先生はおっしゃっています。今道先生は前出のインタビューで、「美はその羊が大きいと書いてある……それは犠牲が大きくて定められた器なんかに乗らない、場合によっては自分の命がそのために押しつぶされて死ぬような人の犠牲だと思う。……自分で進んで人のために奉仕する、そういう心が本当に美しいと思います」と語られました。

 美とは、その犠牲の体験なのです。美は眼を通して見る、耳を通して聴く、舌を通して味わう体験です。善というリアリティーも同じく感性を通して体験するのですが、この美と善のつながりには貴重な真理が秘められています。愛の哲学の基本になるコンセプト(概念)です。

 この夏、私はリージェント大学(志保子さんがお世話になったカナダ・バンクーバーの神学校)で教えていたのですが、その同じ時期にジョン・ヘアー先生というエール大学の哲学者が教えていました。

 ヘアー先生の講義を聞いていたら、彼は最近、無神論者を相手にディベート(論争)を何回か行なっているということでした。非常におとなしい、謙虚な方で、そのような公の口論の場で勝てるのか、と疑ってしまうような方ですが、彼は、実にプリンストン大学のピーター・シンガーという有名な無神論者を相手に、哲学者として神の存在を弁証したということでした。18世紀の哲学者カントの哲学を用いた弁証論で、その内容は複雑ですが、アプローチはシンプルで、シンガー教授もその結果、神の存在の可能性を認めざるを得ないと告白してしまったということです。

 そのシンプルな弁証論とは何かというと、「善」は感性を通して、生に体験しないと理解できないということなのです。「善」は理性を通しただけでは理解できないのです。「善」は体験する、味わうことで、感性を通して「知る」知識なのです。つまり、「善」というリアリティーが存在すると訴えるならば、その裏の神の存在の可能性を認めざるを得ない、という弁証論です。感性を通しての体験にある確かな証拠、せめて「確かさ」の可能性が宿っているということです。

 私はその講義の後、ヘアー先生と食事をする機会が与えられ、先生にこのような質問をしました。

 「『善』を通しての弁証論は『美』を通しての弁証論につながっているのでしょうか?」という質問に、彼は、「その繋がりが、これからの鍵になるだろう」と語っていました。

 このマタイの箇所は、私たちの心のあり方として、心配するよりも感性を使って善を体験しなさいというメッセージです。リアリティーに目を開きなさい。感性を通して体験する「善」には「美」を通していく必要があると、私は思っています。

 「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」と言う前に、「空の鳥を見なさい」そして「野のゆりがどのようにして育つのか、よくわきまえなさい」という感性から入る真理をイエス様は私たちに教えていらっしゃるのです。

 今日の芸術、マスコミの魔力は、このような「思い煩い」を強調し、心を揺るがしています。私たちの不安、恐れを大きくすることによって、新聞が売れ、ニュースが広がります。芸術もその一時的なショック、センセーショナルなものが注目され、長年にわたる訓練、技術、ビジョンを育てることができなくなっています。創造が恐れにハイジャックされて、美を体験することができないのです。

 人間の心の奥底には、神様に創られたというメモリーが生まれた時からインプットされています。その隠れたアイデンティティーが、見えない支えになっています。その支えを取り除いてしまえば、心配の根っこしか残りません。それが、「無神論的」な生き方の本体です。「愛の哲学」は、この時代の盲点に対して「野のゆりをよくわきまえなさい」と訴える訳です。

 「愛なる哲学」は、感性を通して誰でも体験できる真理です。しかし、その裏に神の存在を認めるためには、ある「愛の実験所」が必要とされます。愛の力を生に体験できる場所を創らないといけません。

 

  • 「愛の力」

聖望教会もこれから、新しい道を築く毎日が始まります。教会堂を建てたということで、毎日の心配がなくなる訳ではなく、逆に心配が増える可能性があります。この世の「思い煩い」が重なって入ってきます。その反面、皆さんの努力、「神の国とその義」をまず求めようという努力も「思い煩い」に変わってしまうことがあります。心配の教会ではなく、真の愛との出会いの場になる必要があります。

 野のゆりは朝、見事に咲き、夜にはしぼんでしまう野の「雑草」のようなものでした。ですからイエス様は、その「野のゆり」は「今日あっても、明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのだから」とおっしゃいます。一時的な野花でもこのような栄華を、ましてや永遠に生きる人間にはどのような輝きが約束されているのか、私たちの理性では理解できません。しかし、感性を通して、芸術家は常にその栄華のリアリティーを体験しているのです。愛の芸術家になることは、この現実、生に触れる世界を甦らせる作業です。

 先程語った「これらのもの」という言い回しを、もう一度考えてみましょう。先に「これらのもの」は永遠の命のことを語っていると言いましたが、その裏には大切な真理があります。クリスチャンとして、私たちは永遠の命のこと、復活の命を語ります。イエスの十字架、神様の犠牲愛を通して、私たちは復活の望みに生きている筈なのです。

 N.T.ライトというイギリスの神学者は、この永遠の命のことを“Life after Life after Death”と言っています。つまり「死後の命の後の命」です。聖書は、実は私たちが「天国に行く」よりも、「天国が地に訪れる」ということを重視しています。もちろん死後、イエスのパラダイス、彼の所に行く、ということは確かで、それが「死後の命」です。聖書は、その上に驚くべきことを約束しています。「死後の命の後の命」を約束しているのです。

 このマタイの6章の前半は、イエスがあの有名な「主の祈り」を弟子たちに教える場です。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。…」(9〜10節)。こう祈ることによって、私たちは、天をこの地にもたらせたいと神様に同意しながら、毎日を過ごしているのです。

 考えてみて下さい。天のリアリティーをこの地上に表して下さい、と祈っているのです。「天国に私を連れていってください」ではなく、地に天が満ちますようにと祈っているのです。私たちの将来は、天国の雲の上でハープを弾きながら、永遠に楽に過ごすのではありません。天国がこの地に訪れ、宇宙の物理的リアリティーをひっくり返し、新しくしてしまいます。

 その新しい天地の場で、私たちは整えられ、鍛えられているのです。その新しい「天地」に、私たちは貯金をしているのです。毎日の「愛の行動」は、この世では見えない、消えていくものかも知れませんが、その新しい天地のリアリティーでは、確実に新しい世界を創っているのです。それは今創られている、神様と人間の「共同アート」なのです。

 創ることが信仰、愛なのです。毎日、その地をガーデナー(園芸家)のケンさん(志保子さんの旦那さん)のように掘って、整えていく責任が、創造された神様から与えられているのです。その上に教会を建てたり、家を築いたり、アートを創ったりすることは、いま恐怖に満ちた現代にとっては信仰と愛の表現なのです。そして、「地」そのものに革命的な変化が待っているならば、いま私たちがこの地上に当てる視点は、どこにあるべきでしょうか?

 ゆりの花を見て、考え通すことなのです。その朽ちる雑草も、その天国の器になる物質的存在なのです。そこに、もうすでに永遠の美が広がっていく神様の風景画が見えてくるのです。そして、よく観れば、その雑草の中にイエスの十字架、犠牲、そして復活が見えてくるのです。

 ナザレのイエスは、この世に生まれ、そして「王の王」の権威を持ちながらも、ホームレスになったのです。聖書は、イエスが神の姿を人間の世界に直接持ち込み、人の苦しみ、貧しさの中、この世に愛をもたらす唯一のリアリティーであると教えています。自分のお造りになった世界、恐怖に満ちたこの世界を自らお選びになったイエスは、愛の実行者として十字架の道を選びました。

 弟子たちとあのパレスチナの路上を歩きながら、イエス様ご自身は、この「野のゆり」をどのような思いで観察していたのでしょうか? 毎朝、見事に咲き、夜にはしぼんでしまう、その野のゆり。日中の砂漠の暑さで、からっと乾いてしまうその草は、夜には焚き火を始めるために「炉に投げ込まれる」存在に、イエス様は何を観たのでしょうか。

 この箇所を通して、イエスは逆に私たちの永遠性を教えていますね。しかし、その反面、そこにはあるアイロニー(反語・皮肉)が流れています。神の似姿として創られた本当の姿から離れて、永遠性を失ってしまった人類は雑草のような存在に堕落してしまったのです。つまり、その「野のゆり」によって、自然世界の残酷な呪いが、私たちの存在に危機感を常に与えていることを表しています。

 イエスの眼には、その「炉に投げ込まれるのは」私たちだと考え、この比喩を使っていると私は思います。私たちの「思い煩い」は、ある心理的な恐れがもたらしています。「心配するな」という彼の命令の背後には、「私が自ら、あなたの思い煩いの炎に入ります、受難を受けます」、つまりイエスが野のゆりに見たのは、彼の受難だったのです。

 イエスの愛は、身代わりの愛です。今道友信先生がおっしゃったように、人の命のため、自分の命を捨ててまで他人を愛することを徹底したイエス様が、弟子たちに「心配するな」と命令しながらも、自らはその愛の犠牲を払わなければいけないことを、すでに把握していたのです。本当は、私たちが「炉の火」に投げ込まれてしまう存在なのに、身代わりとなったイエスは、ゆりの花を通して十字架の死、苦しみを観ていたのです。

 日本の文化から生まれた、今道先生のおっしゃる「犠牲の美」、生命の神秘、宇宙の神秘の裏にすでにある事実などは、この箇所に流れているのではないでしょうか。天と地のギャップに橋を渡す「犠牲の大きな羊」は、イエスです。「ソロモン王を超える栄華」の源は、イエスの存在なのです。イエスは美の源です。 

 この真理をわきまえつつ生きるならば、私たちの毎日は見えない「愛の力」に満たされてきます。無駄な人生にもなりがちな私たち、雑草に満ちた私たちの人生が、栄華に満ちる、美に満ちた花壇、神様のアートに変わっていくのです。

 この結果、聖書の約束は驚くべき恵みです。神様の花壇は、決して焼けないのです。私たちがこの犠牲美に基づいて語る言葉、愛に基づいた今日の行動、目に見えない心の賛美、そのすべては、永遠に残ります。逆に、自分勝手な表現、行動、文化は幸いにも焼けて残りません。

 「残る」というのは、ただ抽象的に、スピリチュアルに残るのではなく、確かな、新しい物質の痕跡(こんせき)として残るのです。それが、「死後の命の後の命」なのです。その「物質」とは、天と地の合同した物質で、私たちの理性で分析できる物質とは違う、新しくされた「物質」です。信仰とは、その目に見えない物質をもうすでに見えるものとして生きることではないでしょうか。子供が育っていく姿、愛するものが育っていく姿は、その信仰が実証となる過程ではないでしょうか。

 

 タイ君は、色々な教会を体験しました。ニューヨークの「リディーマー教会」が200人から5000人に膨らんだことも、そして色々な小さな教会も、あらゆる教会の内部の問題も体験しました。9歳の時に、「僕は無神論者かも知れない」と告白したことも、9・11の後遺症に悩まされたことも、いま振り返ってみると、その当時の大きな心配が今では貴重な体験となったと思います。宣教旅行で出会ったプリシラとの友情、そして愛を通して信仰を取り戻し、今は結婚して教会のリーダーとして活躍している姿を見ると、このマタイの箇所が22年の間、彼の心に育っていて、聖書の言葉の力、美、真理の励ましを感じます。

 彼はニューヨーク大学の数学を専攻して卒業しましたが、いまデザイナー・実業家として活躍しています。私とジュディーのホームページや私のプロジェクトのドキュメントの担当をしたり、クリエイティブに生きることを実行しています。

 この間、仕事中に彼と教会の理想像の話になりました。「どんな教会を求めているのか」、「理想の教会は何なのか」という話です。そうしたら、彼はこう言いました。「僕にとって理想の教会は大竹さんの教会だ」と。14歳の時に体験した、皆さんの暖かいコミュニティーが22歳のブルックリンに住む彼の心に種として残り、その地に根を広げ始めているのです。

 彼の若い心に、この“グルメ教会”の理想像を生んだことは、生の体験から始まったのです。「美」が「善」と「義」に繋がり、確かな世界を築いているのです。アーティストという人生は、必ずしも楽な人生ではありません。しかし、子供を持ちたくないと言っていた、この愚かな芸術家をもイエス様は愛し、心を変え、人生というアートを通して、子供三人との豊かな体験を与えてくださいました。この場で、皆様の中にもそのアートが膨らみ、大きくなることを期待し、祈ります。