恵みのしずく

恵みのしずく(14) 「破れ口に立つ主」

(以下の一文は、1999年9月25日(土)、聖望キリスト教会会員の熊田靖子姉のご主人・美幸兄の納骨式において、司式をされた藤崎信牧師の説教です。 

 実は、この3年前の1996年12月に、設立以来30数年経過した美幸氏の会社は、バブルの影響を受け、会社・家屋とも銀行の管理下となりました。この倒産のショックが原因で、同氏は病気になり、入退院を繰り返すようになりました。

 しかし、このことが美幸氏を神に立ち返らせたのです。会社も順調、健康も自信満々であったときには、クリスチャンの妻や娘たちの勧めにも耳を貸しませんでした。ですから、妻の靖子姉は「夫がいつか神に屈服する時は、会社の経営で躓いた時か、それとも病に冒され、肉体の限界を知った時のどちらかであろう」と思っていました。ところが、それら二つが一度に降りかかってきたのです。

 お花茶屋から市川へ逃げるように引っ越してきて、わが家の知心荘にいたこともあり、家の教会「聖望キリスト教会」に出席した時、「主を信じます」と告白しましたが、受洗までには至っておりませんでした。

 その後、心臓を患いペースメーカーをつけて間もなく、高熱を出して3日目に駆けつけてくれた「宮園福音館」の三木貞夫牧師から病床洗礼を受け、その翌日、急ぐように天に召されていきました。1998年(平成10年)12月15日のことで、その翌日が62歳の誕生日でした。)

(2019年3月1日 大竹堅固記)

 

 

 

「破れ口に立つ主」

「それゆえ、主は彼らを滅ぼそうと言われた。しかし主のお選びになったモーセは、破れ口で主のみ前に立ち、み怒りを引きかえして、滅びを免れさせた。」

(詩篇106:23、口語訳聖書)

 

秋晴れの下、わたしたちは熊田美幸さんの遺骨をここに納めるために集められました。「地と水と人をわかちて秋日澄む」(飯田蛇笏)。大気がすみ渡った世界、地も水も人も紛れもなく、きわだって存在している、という意味の句であります。

 

わたしたちは、主のみ名をさんびし、み言葉を読みました。「主は彼らを滅ぼすと言われたが、主に選ばれた人モーセは、破れを担って御前に立ち、彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた」(詩篇106:23)。詩篇106篇は、「歴史の詩篇」と言われます。救い主を忘れ、大いなるみ業を早々に忘れ去るというものであります。

 つまり、自分たちの存在の「ルーツ」を切断し、救いの歴史を否定するのであります。初代教会でも、こうしたことは起こったのであります。使徒パウロはガラテヤの教会の人々に「あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか」(ガラテヤ3:4)と問いかけております。歴史を忘れない教会でありたいと思います。

 今日読んだ聖句は、その破れ口にモーセが立って、主の怒りをなだめた、というものであります。「破れ口に立つ」とは、敵につき崩され、決壊した破れ口に身命を賭して立ちはだかる、ということであります。わたしたちは、主イエスこそ、罪と死の破れ口に立って、救いを全うした方であるとさんびします。

 

 主は「わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)と言われました。破れ口に立つお方は、実に主イエス・キリストであります。これが第一のことであります。第二のことは、今日のこの納骨式のことであります。多分、今日が初めて教会の墓地として、この墓地が用いられるのではないかと思います。

 わたしは、主の深い導きにより、大竹達之助さんが、第二の破れ口に立つ人として用いられている、と信じます。「アベルは死んだが、信仰によって今もなお語っている」(ヘブル11:4)。召された人を語らしめる者は、生きているわたしたちであります。

「主がお入り用なのです」(マタイ21:3)と、今日、この墓地は用いられつつあります。つまり、聖望キリスト教会のアベルである大竹達之助さんのことを覚える。これが「歴史の詩篇」を読む第二の意義であります。そして、第三番目は熊田美幸さんこそ「破れ口に立つ」方であるということであります。わたしは、熊田さんのことはよく存じていません。

 

 しかし、病床洗礼をうけ、すべてをみ手にゆだねて、天に召されていった、というこの一事をわたしは知っております。「主はわたしの牧者」(詩篇23:1)。熊田美幸さんは、霊において牧者である神の元で賛美の生活をしております。わたしたちは、そのことを信じて、兄弟が残していったものを大切にしたいと思います。

 この墓所は、大竹家のものでありますが、やがて教会に献げられる、と聞いております。従って、この墓所に熊田兄弟の遺骨が納められるということは、聖望キリスト教会の墓地に、最初の人として納められる、ということになります。そして、これこそが神の御憐れみというべきでありましょう。

 人生の一番最後に受洗した方が、教会墓地の一番最初に入ることになりました。こうして、熊田さんは、なかなか立ち得ない「破れ口に立つ」者として、み恵みによって主に用いられる器として、立たしめられております。こうして、これからも熊田家の破れ口に立って、兄弟は主に祈る者として、尊く用いられて参ることである、と思います。

 

 墓地はドイツ語で、フリード・ホーフ(平和の庭)と言います。この墓地が、「ハレルヤ!」という歌声で囲まれ、わたしたちに安らぎと希望を与える所となりますように。奥様や、御子様たちにとって、この所が“聖地”となりますように。

 

祈り

主イエス・キリストの父なる神、み名をさんびします。罪と死の破れ口に立って、わたしたちの救いを完成した主イエスによって、大竹達之助さんが、み恵みによって、聖望キリスト教会の破れ口に立つ人として、ご用に当たっています。

 今日また、愛する熊田美幸さんをここに納めようとしております。どうか同兄弟を、熊田家の破れを担って、主に祈る者として、これからも尊くお用いくださいますようにお祈りします。

 ここに共に祈るすべての人を祝福して下さい。ご用に当たる方々の労をおんねぎらいくださいますように。

 この祈りを、主のみ名によって祈ります。アーメン。