恵みのしずく

恵みのしずく(15) 「母よ、主の御つばさに乗って天翔けよ」

 1984年のアドベント(待降節)に入る前日の12月1日(土)午後7時7分、母千代は、走るべきこの地上の行程を走り終えました。

 思えば、母の75年の生涯、特に晩年の4,5年は思いがけない病の進行により、皆様にご心配、お世話をおかけすることが多くございました。しかし、故人が若き日より信仰した神の恵みと憐れみにより、また多くの方々の心からの祈りと励ましに支えられて、母は亡くなるまで痛みを訴えるでもなく、苦しみの声を発するでもなく、全くの平安のうちに、この地上の生活に終止符を打ち、確実に天国に召されたことを、私たちは心底より信じております。

 その意味では、「ハレルヤ!」「大竹千代、萬歳!」と声高らかに叫んでもよいのですが、3年8ヵ月余、再び市川に戻って母と生活した私たちにとっては、やはり、母のいなくなった淋しさは拭いようのないものです。

 「たとえ一言の言葉を発しなくとも、ただ息をしていてくれるだけでよい」との思いは、切なるものでしたが、病の進んだ母にとっては、どちらがよりよかったか、私たちには判断しかねます。神の御心に従うのみです。

 昔の母を知る者にとっては、晩年の母の変わりようは悲しいまでではありましたが、私たち、この病める母から、いかに多くのことを学ばして頂いたか。母は私たちにとって、本当に恵みの源でした。

 せわしない一日を終えて、母の枕辺で祈る時、無言の母に語りかける時、私たちは自分自身が浄められるようであり、母をパイプにして神と対話する喜びが与えられたのでした。(*後述の別稿「枕辺の祈り」参照)

 母のような「進行性脳萎縮症」(アルツハイマー症)、いわゆる「ボケ」といった病気は、人格欠損つまり人格が破壊されるケースが非常に多いと言われます。しかし、母は最後まで生来の品性をすっかり失うということはありませんでした。大部分の言葉が失われたにもかかわらず、「ありがとうございます」「すみません」「左様でございますよ」「そうですとも」といった美しい日本語が、時にその唇(くちびる)から発せられるのに、どんなに驚かされ、また嬉しかったことか・・・。

 脳が冒され、その細胞が急激に破壊されていく中にあっても、その心は生きていたようです。例えば、こんなこともありました。

 大分弱ってきて、食欲がなくなってきましたので、妻がすべての食物をミキサーにかけ汁状にして、吸い飲みを赤ん坊にあてがうように「おばあちゃん、食べないと弱ってしまうから、お願いだから食べて頂戴!」と頼むと、突然、その開いた眼から一筋の涙が流れ出て、「ありがとうございます」

 と、はっきり言葉を発したのでした。脳細胞があれほど破壊されてきているのに、この不思議を何と解釈すべきでしょうか。

 幼き日より多くの悲しみを味わい、父と結婚してからは、その商売を助けて、文字通り身を粉にして働き続けた母。自分の楽しみは少しも求めず、7人の子供を育て、その16人の孫たちに思いを致すことで、その生涯の大半をついやした母に対し、私たちはいま、

 「長い間、本当にご苦労様でした!」

と、心から言ってあげたい。主よ、この母に永遠の安息を与えたまえ。そして、全きからだの復活を・・・・・・。

 (去る12月4日、ご葬儀でのご次男・大竹堅固兄のご挨拶)

 

 〈追 記〉 上記の一文は、両親の母教会であった浅草橋教会の月刊通信「やわらぎ」(1985年1月号)に掲載されたものです。

 前年12月の母の葬儀の時は、ちょうど教会堂が建築中であったため、前夜式・告別式とも市川のわが家で行ないました。

 2年3ヵ月前の父の場合と同様に、ほぼ最後の近くまで家で両親の面倒を見ることが出来たのは、何かあると夜中でも飛んできてくれた義兄の村田健三ドクターが下矢切で開業医をしており、入院の必要の時は近くの「一条会病院」と話をつけてくれていたからです。

 母の前夜式を終えた翌朝、私はひとりで階下におりて母に挨拶しようと柩(ひつぎ)の上部窓を開けた時、思わず驚愕の声をあげました。信じがたい“奇蹟”を見たのです。昨日までの痴呆(ちほう)の顔ではなく、私の大好きな寂し気ながら凜(りん)とした以前の母がそこにいたのです。

 この奇蹟の経験は、ほぼ10年後の1994年9月4日に87歳で天に召された家内の母・實川晴子姉の召天後にも再び起きたのです。

 召天までの10日間、晴子さんはただ昏々(こんこん)と眠り続け、最後に目を覚まし、そばにいた孫に「ありがとう。アーメン」とはっきり言って、深い眠りに入ったそうです。

 87年間、苦労を一身に背負ってきた母故に、その顔には全面、深い皺(しわ)が刻まれていたのですが、翌朝、訪れたときには全く消えて、それはそれは綺麗な顔になっていたのです。深川の母も、こんなに美人だったのだ!

 それ以降、私は「使徒信条」を朗読する度に、特に最後の「からだのよみがえり、とこしえの命を信ず」を力を込めて言うことにしています。まさに「アーメン!」です。

 

 

「枕辺の祈り」

(大竹 堅固)

 主よ。

 今日も一日、この母をお守りくださり、ありがとうございます。

 あなたがいつも、限りない慈しみを母に注いでいて下さることを感謝いたします。

 今晩も、どうか、その心に不安や恐れを抱くことがありませんように。

 あなたの愛の大庭の中で、安らかな眠りを、お与え下さい。

 

 主よ。

 愛する母が、日増しに手がかかるようになり、わからなくなっていく様を見るのが辛く、

 「なぜ?」と、つい、あなたに問いかけてしまった私をお許し下さい。

 罪多きこの身を救うべく、また父の信仰の仕上げをすべく、

 あなたは、この母を傲れる私たちに与えられました。

 このことを今は心から感謝いたします。

「これによって、私はあなたのおきてを学ぶことができた」からです。

 

 主よ。

 あなたは、本当に、この母の病を通して、いかに自分たちが卑小で、

 愛に乏しいものかを思い知らせてくれました。

 また、それ故に、あなたの“無償の愛”が、いかにくすしく、貴いものであるかを教えて下さいました。

 「愛は、神から出たものである。」

 どうか、あなたからその愛を頂いて、それを少しでも、ひとに注ぐことのできる器とならせて下さい。

 

 主よ。

 この母を私たち一家に委ねて下さった恵みを感謝いたします。

 その病も、「ただ神のみわざが、彼女の上に現れるためである」ことを信じます。

 あなたが、この病める母をも、有効にお用い下さいますことを確信しております。

 どうか、肉につらなるわが兄弟姉妹、またその子供たちが、この母を通して、あなたにつらなる者となりますように!

 このことを感謝しつつ、愛するイエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

 

(宮園キリスト教会「えくれしあ」〈家の教会〉第2号所載、1983年11月発行)