恵みのしずく

恵みのしずく(13) 「あるペンテコステ物語」 -グランマ晴子の超克人生-

 (「超克」とは、いかなる困難・試練をも乗り越えて、それに打ち勝つこと。聖書で言えば、まさにⅡコリント4章8節です。以下の話は、1997年5月18日のペンテコステ礼拝で、大竹が「飛んできた風船と晴子おばあさんの受洗」と題して概略を語ったものを後日、書き直したものと思う。第2章以下は、いつ書かれることか・・・。)

 

  • 飛んできた赤い風船

 1985年6月5日、梅雨前のよく晴れ渡った月曜の朝、いつものように晴子おばあさんは、工場の上にある広い屋上で洗濯物を干していました。

 「なんて気持ちの良い天気だろう。これなら洗濯物もよく乾くわ」

 そう独り言を呟いて、上を見上げると、何か赤い物がフワフワと近づいてきます。すぐにそれが赤い風船だと判りました。そして、風船は力尽きたかのように、晴子おばあさんの足元に落ちて止まりました。

 よく見ると、風船には黄色いカードのようなものが付いていました。「なんだろうか?」と思って、晴子おばあさんはそれを開いてみました。

 カードには、こんなことが子供のエンピツ書きで記されていました。

 「きょう、6月4日はペンテコステ、教会のお誕生日です。この風船のカードを拾った人は、教会へ電話をください。」

 そして、その横に教会名と電話番号がやはり子供の字で書かれていました。大田区田園調布にある福音ルーテル「田園調布教会」とありました。

 「ペンテコステなんて“へんてこりん”な言葉は聞いたことがないわ。なんだろうか。そうだ、登巳子ならクリスチャンになったから知っているやろ」

 そう呟いて、晴子おばあさんは、そのカードの付いた風船を大事に部屋の中に運び入れました。

 その日の午後、その娘の登巳子が学校の帰りに寄ってくれました。

 晴子おばあさんの次女・登巳子は、市川の大竹家に嫁(とつ)いで19年、3人の子の母になっていました。結婚して4年後には、千葉市の稲毛・宮野木に家を建て、3人の子育てに忙しい中、よく子供をつれては実家の深川に来てくれました。それが、登巳子の両親にとって何よりの楽しみでした。

 しかし、1980年に市川の大竹の母のアルツハイマー(認知症)が進み、その伴侶だけではお世話が無理になってきたということで、登巳子一家が急に市川へ引っ越すことになりました。

 そのことで、なかなか決断がつかず、悩んでいた登巳子に、母の晴子は断定的に告げました。

 「あなたが行かんで、どうするの。悔いのないように、嫁のあなたが、ちゃんと面倒を見てあげるのよ」

 この母の言葉に、登巳子も心を決めました。途中、総2階に建て直して、これがわが家の“終の住処(ついのすみか)”とも思っていた家を他人に譲り、市川に親との同居の家を建て、1981年3月に慌ただしく越してきました。

 それから、昨年1984年12月1日に大竹の母を天に送るまでの4年間、途中に大竹の父をも送って本当に忙しく、気になりつつも、なかなか実家には伺えませんでした。せめてもと電話する登巳子に、母の晴子は、いつも決まってこう言うのです。

 「わたしらのことは気にせんでええ。ひとりでちゃんと出来るから。そんなことより、堅固さんのご両親のことをお願いするよ。悔いの残らぬよう、ちゃんと見てあげるんや」

 登巳子は、この母・晴子の言葉に、どれほど励まされたかしれません。

 大竹の両親を天に送って、何とか一段落した1985年早々に、思いもかけない母校の東京家政学院での講師の話が舞い込んできたのでした。夫の堅固も、とても喜んで、

 「この4年間も、私のきょうだいたちの協力で臼田素娥(うすだ・そが)

先生の料理教室へ休まずに通ったお蔭だよ。それに、これは、あなたが私の両親の面倒を本当によく見てくれたことに対する神様の“ごほうび”だよ。喜んで受けさせてもらえば・・・」

 と言って、それを受けることを強く勧めてくれました。実は、この臼田先生の実弟が、直木賞作家であり、経済評論家、経営コンサルタントでもある邱永漢(きゅう・えいかん)氏で、数々の日経(日本経済新聞社)からの出版を通して、堅固が公私ともに親しくさせて頂いておりました。また邱先生は、当代きってのグルメ(食通)で、食味随筆の傑作も多い方です。

 夫の口利きで、中国料理の大家・臼田素娥先生の大森の自宅での料理教室に入れて頂き、すでに満10年が経過していました。その臼田先生に、家政学院から講師の要請があったのです。しかし、臼田先生は、

 「私は、他にも2つの大学で講師をしているし、NHKの料理番組などで忙しいから、私の代わりにあなたが行きなさい」

 と登巳子を指名し、「何か免状がいるなら・・・」と言って、「中国料理大成」の免状を墨書して、推薦状と一緒にくれたのでした。

 こうして、思ってもいなかったことが1985年の春から始まり、登巳子は千代田区三番町にある母校の短大生に調理実習、特に中国料理の基本を教えることになったのでした。

 

 学校の帰りに寄った娘の登巳子に、晴子おばあさんは、早速、風船とカードを見せて言いました。

 「このカードに書いてあるペンテコステというへんてこりんな言葉は何だい。それに、『風船を拾った人は電話をください』と書いてあるから、すぐに電話をしてあげて・・・」

 そこで、登巳子はペンテコステの意味を教えたあと、母に代わって教会へ電話をすると、電話口に出た女性が、きのうのペンテコステに教会学校の生徒たちがカードを書いて、それをつけた風船を50個以上飛ばしたことを教えてくれました。そして「あなたのお母様が風船を拾って電話を下さった最初の方ですよ」と告げた後、

 「お母様は、今おいくつですか?」と尋ねました。登巳子が、

 「母は明治40年(1907年)生まれで、今年3月に満78歳になりました。とにかく、明治生まれの気丈な母で、最後に頼れるのは自分だけだと言って、なかなか信仰には程遠い人なんです・・・」と告げると、その女性は、

 「私の母も80を過ぎて受洗しました。風船が田園調布から一日かけて、広い東京を横切って、お母様の足元に届けられたのも、神様のご計画かも知れませんよ。お母様のために、私もこれから祈っていますよ」と答えて、

 「あなたも諦めないで祈り続けてくださいね」と言葉を添えてくれたのでした。

 

 

(今日はこの第1章で終わります。このあと、第2章で晴子おばあさんの80年以上にわたる“波瀾万丈の生涯”を書き、最後の章で、何と、この風船事件があった7年後の1992年の6月7日、しかも「そのへんてこりんの日は何なの?」と言ったペンテコステの日に、85歳の晴子おばあさんが洗礼を受けるのです。)

 それでは、長くなりましたが、ひと言、祈って今日の宣教を終わります。

 

〈祈り〉

 今も私たちに聖霊を送り続けて下さっている天の父なる神様、あなたの御名を心より賛美します。今日はペンテコステ、イエス様の命令を守り、祈りつつ待っていた120名ほどの人たちに、あなたの聖霊が注がれました。そして、聖霊に満たされた彼らは、生まれ変わったように力を得て、あなたの福音をいのちがけで伝えていく使者となっていきました。

 これは2000年前に起きた歴史的な出来事であるだけでなく、その後も、多くの人たちがあなたから聖霊を頂いて、あなたに従っていきました。どうか今、ここに集う私たちにも聖霊を降り注いでください。そして、誰もが「私の仕事はキリストを証しすることです」と、堂々と言えるように導いてください。

主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

1997年5月18日(日)ペンテコステの日 大竹堅固記