恵みのしずく

恵みのしずく(6) 「ああ、戦争はいやだ、戦争はいやだ」

(この一文は、当時87歳だった奥野静枝姉が2005年8月14日の「平和祈祷・証詞礼拝」で語ってくれた自らの戦争体験のお証詞です。

結婚してまだ2年にも満たず、次男がお腹に2ヶ月の時、愛する夫は召集令状(赤紙)1枚で出征してゆき、それが永久(とわ)の別れとなりました。これを最初に読ませて頂いた私は、「これは教会の“宝”であるだけでなく、平和を語り継ぐ素晴らしい遺産になる」と確信しました。その後、静枝さんは戦中・戦後の大変な中、女手一つで二人の子を育て上げ、お習字の先生としても多くのお弟子を教えてこられました。そして、何よりの幸いは、このお証詞の約2年前の2003年10月5日に自ら希望して洗礼を受けられ、85歳のクリスチャンが誕生しました。今年(2018年)1月3日には満100歳を祝いました。ハレルヤ!)

 

 毎年、私は7月という月が近づきますと、何故か黒いベールに包まれたような暗い気分に襲われます。そして、巷(ちまた)にほおずき市の噂が流れはじめますと、物憂いものに閉ざされてゆく自分をどうすることも出来なくなります。

 60数年を経た今も、鮮明にその日がよみがえり、私を悲しみが締め付けます。昭和16年7月9日の朝、夫の母がご機嫌うるわしく、「今日はほおずき市へ行こうね」と誘ってくれました。夕飯もお風呂も早くすませて、「あんたは、この間作った浴衣(ゆかた)に黄色いひとえ帯を締めていきなさい」などと会話もはずんで、私は大喜びでいそいそと一日の仕事をすませ、夕方になるのを待ち兼ねたように、2階の居間で支度を始めました。

 そこへ主人が上がってまいりました。黙って立っているので、「一緒に行きたいわね」と私が話し掛けますと、さっと降りていってしまいました。私は何も気にかけず、幸正を抱いて外へ出ました。ところが、出るや否や、幸正が火がついたように泣き始め、どうしても泣き止みません。いつもはあまり泣かない子が?と母も私も少し心配になり、ほおずきも買わないまま渋々と引き返しました。 

 合羽橋の通りは、ほおずきを抱えた浴衣姿の老若男女のゆき交う下町情緒溢れる情景ではありましたが、戦前では最後だったかと思います。歩いている人たちの心の中には、不安と恐怖が渦巻いていたかも知れません。それらを少しでも忘れたくて、雑踏の中をさ迷っていた人もいたかも知れません。

 幸正は家に入るとすっかり泣き止んで、お父さんに抱かれてニコニコ笑っておりました。いつもは、その時間には店も片付いて、奥でゆっくり休んでいるはずの主人が、山のように帳簿を積んで調べ物をしている様子が不審で、私は夫の顔を覗き込みました。

 すると夫が、母と私の前に正座して、「今夜遅く家に召集令状がくる。夕方、区役所の人が知らせに来てくれたので話しに行ったんだが、あまり静枝がはしゃいでいるので言えなくなったんだ」と申しました。

 すると母が、「幸坊はわかっていたんだね。それであんなに泣いたんだ」と袂(たもと)に顔をうずめ大声で泣き始めました。私も泣きました。泣いて、泣いて、泣き明かしました。

 「今夜はいくら泣いてもいいけど、明日からは泣いてはいけないよ」と、主人からたしなめられました。あれは“遺言”だったのかと、あとで気が付きました。

 翌日からは、お客様の接待やら主人は挨拶廻りで忙しく、お互いの話をする間もなく、出発の日がまいりました。太平洋戦争が始まる丁度半年前でしたので、もう盛大な宴会や見送りは禁じられ、普段着のまま、主人の叔父と私の兄二人に付き添われ、取手の隊へ入営いたしました。

 私は門の中で幸正を抱いて、主人は幸正の頬っぺをつっついて「元気で大きくなるんだよ」と一言(ひとこと)。その一言が永久(とわ)の別れでございました。昭和14年12月に結婚した私たちの結婚生活は、二年に満たないものでした。

 入営いたしましてから丁度一週間目の真夜中に電話が入りました。「明日、戦地へ発つ途中に上野駅を通るらしい」というだけの電話でした。私は夜明けを待って、幸正をおんぶして上野駅に立ちました。待てど待てど、それらしき姿は見えず、午後2時ごろ、私はむなしく駅を離れました。聞くところによれば、田端から大阪方面へ廻ったということでした。

 家への途中、あまりの暑さと疲れで私は、主人の知り合いのお宅で一杯のお水をいただきました。戦後30年ばかり経ったある日、そのお宅の奥様に再会いたしました。いろいろと想い出話の中で、急にその方が「あの時、あなたが汗びっしょりの背中から坊やを下ろして私に渡しながら『ああ、戦争はいやだ、戦争はいやだ』と叫んで、そのままくず折れてしまった姿を、私たち家族は生涯忘れませんよ」と、ぽろぽろ涙を流されながら話して下さいました。

 そして、昭和18年7月15日の正午過ぎ、私の手元に届きましたのは、「3月5日頃ガダルカナル沖にて敵の爆撃により輸送船もろとも轟沈(ごうちん)全員行方不明により戦死とみとむ」といような納得のいかない公報でした。それを受け取りました時、私は次男にお乳を与えておりました。次男がお腹に2ヶ月の時、出征いたしましたから、お父さんには逢っておりません。涙も言葉もなく、私は唯々二人の子供を抱き締めるばかりでした。

 その公報を受け取った直後、防空演習に呼び出されました。私は黙って参加いたしました。そして、指導の軍人の話を聴くため直立不動の姿勢で立っておりましたが、突然、私は自分の足元が崩れ、砂と共に沈んでいったようです。それは何か、陶然とそのまま消えてゆくのを望んでいるような、放心状態とはあのことなのかと思うのですが、前後のことは覚えがありません。

 人間は、悲しみの極致には涙も出ないということを体験いたしました。昭和19年の春、広島へ英霊を迎えに参りました。何も入っていない空っぽの函(はこ)を受け取りながら、それでも私は、きっと夫の魂は私の所へ帰ってきてくれたのだとかたく信じました。私はしっかりと空っぽの函を抱きました。

 昭和20年3月10日のB29による東京大空襲で、東京の家は焼けましたが、その時は高知のいとこの家へ行っておりまして、火事にはあいませんでした。どうせ日本は負けて、自分たちも玉砕だと思っておりましたので、大した感慨も湧きませんでした。高知の街も空襲で焼け、私共はまた山奥へ逃げ、高知県地蔵寺村というところで、8月15日、敗戦の玉音放送を聞きました。

 たゝかいは かくて終りぬ 吾が君の 命はてしは 何故なりし

 歌など一度も作ったことのない私に、この31文字が突然浮かびました。私の体の中をむなしい風が吹き抜けました。 

 戦争をご存じない方々にお願い申し上げます。召集令状(赤紙)などというもののない世界を作って下さい。平和を祈り続けて下さいませ。

 戦前・戦後の苦しみは、決して私だけではございませんでした。けれど、神様はそのひとりひとりをご覧下さっていたのでございましょう。私はやっと二年前、主のお赦しをいただきクリスチャンへとお導き頂きました。今は、ただ感謝の日々でございます。

 「夕暮れ時に、光がある。」(ゼカリヤ書14:7)

 主イエス・キリストの尊い聖名をほめたたえます。 感謝。

(2005年8月14日(日) 奥野 静枝)