恵みのしずく

恵みのしずく(7)「六千人の命のビザ―杉原千畝(ちうね)の決断」

(この一文は、「東京キリスト伝道館」の加藤正義師が毎月発行した『よきおとずれ』第36巻第8号、平成3年=1991年8月1日号からの抜粋です。)

 

 私は過日、いのちのことば社を訪れた時、2冊の本を「いかがですか」と示された。それは、杉原幸子という人の書いた『六千人の命のビザ』という本と篠輝久という人の書いた『約束の国への長い旅』という2冊の本であった。

 内容が、イスラエル人に関することであったので、早速買ってきて読んだが、それは今次大戦の秘話とも言えるべき内容であって、当時、リトアニア総領事として勤務していた杉原千畝氏の記録であった。

 バルチック海に臨む、エストニア・ラトヴィア・リトアニアの3国は、もともと独立国であったが、今日では、ソ連邦の一小国として併合されて存在している。

 その一番南のリトアニアの首府カウナスの日本領事館で、今から50年前の出来事であった。杉原千畝氏が、朝、目をさましてみると外の雰囲気が、いつもといささか違う。胸騒ぎがして起き出してみると、領事館の外は人々々の行列と、不安げな人々の顔で一杯であった。

 5人の代表を選んで、杉原氏が逢ってみると、「私たちは、みなユダヤ人です。私たちはポーランドから来たものですが、これから日本を通って、平和な国に行きたいのです。そのため、あなたから、日本を通ってもいいという、ビザを頂きたくて来たのです」と。

 誰でも外国へ行く時には、その国の政府が、その人の身許や国籍を証明し、相手国の政府に保護をたのむ書類「パスポート」がいります。これを旅券といいますが、これだけでは充分でなく、国によってはもうひとつ「ビザ」という書類が必要で、これは査証ともいい、その人の行きたい国が、「来てもよい」と認める、通過ビザ(Transit Visa)というものが必要になってくる。

 ユダヤの人々が、杉原さんにたのんだのは、日本を通るのに必要な、この通過ビザであった。杉原さんはおだやかに、

「日本はドイツと防共協定をむすんでいるので、あなた方ユダヤ人にビザを出すのはむずかしい立場にあります。このことをご理解いただきたい。」

「それは、よく承知しております。しかし、あなたは日本人の代表、私はユダヤ人の代表として、あなたにお助け下さることを願っているのです。」

 その翌日も朝早くから人々は集まって来ていたが、人々の顔には焦燥の思いが色濃くあらわれていた。

 杉原さんが、どのような思いで、この時を過ごしたかは知る由もない。しかし、外部にびっしりと押しかけている人々にむかって、鉄柵越しに、

「ビザを発行しますよ。」

と告げた時、その人々の間には、電気でも走ったように、一瞬の沈黙と、その後のどよめき、抱き合ってキスし合う姿、天に向かって手を広げて感謝の祈りをささげる人、子供を抱きあげて喜ぶ母親、喜びをかくし切れない人々、感謝のあまり、どっと大波のように押し寄せる人々にむかって、

「ビザは間違いなく発行しますから、どうぞ順序よく入って来て下さい。」

という杉原さんの呼びかけに、彼らも冷静さを取り戻したのであった。

 ボーイのボリスラフが整理券を出すことを思いついたので、その整理券に従って人々は行動するように変わった。それからが大変な仕事になった。

 杉原さんは、朝食のコーヒーを飲むと急いで事務所へ下りて行き、一人一人の応答の後、手書きでビザを書くという作業を始めた。 

 一人一人面接を行って、目的地まで行けるお金は持っているのか、いろいろな書類に必要な事項を書き込み、しかも、一人や二人でない、何百人というユダヤ人のビザを発行するのであるから、きりがありません。杉原さんは、朝9時に領事館を開くと、夕方の5時まで、昼飯もとらずに、ビザの発行の手続きをつづけ、時々、奥さんの顔を見に戻ってくると、

「おい、外にはまだ、どれ位残っているかね?」

「まだ相当残っていますよ。」

「そうか。」

と言って、下の事務所に戻って行った。

 

 杉原千畝さんが、外務省宛に発信した電報は、「ノー」という返事で戻ってきた。当時の外務大臣が、戦後処刑された松岡洋右氏であったのだから、これは当然である。

「内務省は、大量の外国人が日本国内を通過することに治安上反対している。ビザ発行は禁止する。」

という本国からの返信を受け取った時、杉原さんの腹は決まったようであった。

「幸子、わしは外務省に背いて、領事の権限でビザを発行することにするよ。いいだろう。」

 主人にそう言われると、奥さんの心も夫と一つであった。

「あとで、私たちはどうなるかわかりませんけれど、どうぞ、そうして下さい。」

「大勢の人の生命が、私たちの言動にかかっている。本国からの命令に背けば、外務省も私を辞めさせるかわからない。たとえ外務省を辞めさせられても、この人々の生命を救わねばならない。」

 いろいろとぬぐい切れない不安はあったけれど、杉原さんはこのように、自分の腹を決めるより他になかった。

「大丈夫だよ、ナチスに問題にされたとしても、家族にまでは手を出さんだろう。」

 それから杉原さんは奥さんの顔をまっすぐに見て、もう一度、念を押すように、

「いいね、もし、ここに百人の人がいたとしても、私たちのように、ユダヤ人を助けようとは考えないだろう。それでも、私たちはやろうね。」

 幸子さんは静かにうなずいて、夫の決意をうながしたのであった。

 

〈追 記〉

 杉原千畝氏は、ユダヤ(イスラエル)の「ゴールデンブック」に諸国民の中の正義の人として、その功績を永遠に顕彰されている日本人の一人です。早稲田大学の14号館前に杉原千畝のレリーフがあります。彼は1918年に早稲田大学高等師範部に入学し、アメリカ人宣教師が創ったキリスト教のコミュニティー「早稲田奉仕園」の会員でもありました。

 もちろん、クリスチャンでもありましたから、ユダヤ人へのビザ発給は、神に対し祈りに祈った末の決断であった筈です。後年、

「私は、日本政府には背いたかも知れないが、もしそれをしなかったなら、神に背くことになった」と語られたそうです。

 加藤正義師も、今日の『よきおとずれ』の巻頭で「人生には愛によって働く勇気ある決断が必要である」として、ヨハネ3:16、ヨハネ第一の手紙3:16、同4:7~8を挙げて本篇を始めています。こうした決断ができるのも、「神の民」に与えられている特権であります。

(2018年8月2日記 代表:大竹堅固)